向いているも、向いていないも、ないんだよ。
漢字の練習をしながら寝落ちした次男くんが、横ですやすや眠る中、長男くんはなかなか寝付けない様子だった昨夜。
卒業式を控え、小学校生活はどうだった?など、真っ暗な部屋の中で長男くんと話をしていた。
どんなことが楽しかった?と聞くと、僕あんまり過去のことって覚えていないんだよね、と長男。
「んー、なんというかさ。写真を見ないと思い出せないんだよね。出来事が”あった”という記憶はあるんだけど、それがどんな感じだったかというのは、写真を見ればなんとなく思い出せる。でもそうじゃないと、なんというか、色がついていない感じ?」
その表現を聞いて、なるほどな、と思う。
出来事が”あった”という記憶と、
思い出というのは、また別のものなのだと感じたのだ。
運動会があったね、という出来事の記憶は、頭の中のデータとしてあるから、わりとすぐに検索に引っかかって、「あったね」という事実として思い出すことはできる。
ではその運動会がどういったもので、その時にどんなことを感じていたのかというのは、そんなに瞬時に思い出せない。
「あった」という思い出せるデータは、確かに色がついていない。
でも、写真や動画なんかでその瞬間を再現できると、一気に色がついて、あんなことを感じていた、こんなことを言われた、みたいなことが溢れてくる。何なら肌感覚で感じられるものもあるくらいだ。
それを「色がついていない」と表現する、長男くんの繊細さよ。
なんて美しいのだろう。
あなたが見ている世界を垣間見る瞬間、その世界が私の中にも重なってきて、一気に彩りが増して広がる。
あなたが見ている世界、感じている世界、大切にしたい世界が、私に大切なことを思い出させてくれるし、教えてくれる。
それなのに母の私は、昭和の価値観をずるずると引きずりながら、押し付けるようなものの言い方をしてしまうことも多いし、それがあなたが邪魔に感じているのも知っている。
「もっと優しくて穏やかなお母さんになりたいなぁ、って思っているんだよ。だけどさ、なかなかそうなれなくてさ。ママはお母さんに向いていないのかもな、って思ったりすることあるよ。」
などと自分の口から言葉が出てくる。
子供たちに対して、申し訳なく感じている思いがあるんだよなぁ。
「向いているも、向いていないも、ないんだよ。ママは、そうなだけ。そういうお母さんなだけ。だってそんなの、変わらないでしょ?それでいいんだからさ。」
長男くんは、いつもこんな深いことをサラッと伝えてくれる。保育園の頃からそんなことを言ってハッとさせられ続けてきた。
彼は、本当に内面が成熟しているんだと思う。
私はひそかに彼を、「長男先生」と言って尊敬している。
(本人に向かって呼んだりはしないが。)
来月から中学生。
ゲームが好きで、YouTubeが好きで、数学が得意で、手先が器用で、何よりも優しい。
そして忘れ物が多くて、朝起きれなくて、集中しているときは何も聞こえない。
さぁ、彼はどんな風に成長していくのかな。
その過程を一番そばで見させてもらえることに、感謝。
自分の好きを力に変えて、どんどん大きくなってね。
そのために母は、もう少し気持ちに余裕のある、大人になろうともよ。