世界は愛で出来ている。
日常の中で、私たちは様々なことを感じ取っているのだけれど、ほとんどの場合その多くをスルーしていますよね。
無意識のうちに。
無意識だから、思い出すこともなかなか難しいけれど、例えば何かの瞬間、ふわっと温かい感覚になったり、きゅっと縮こまる感じがしたり。
それが何かということに意識を向けることはもちろん、それを「感じ取っている」と改めて認識することは少ないかもしれません。
だってそんなことにいちいち意識を向けていたら、日常生活がままならなくなる…と、「思い込んでいる」から。
今朝、胸のあたりがキュッと閉じて、圧迫されるような瞬間がありました。
「あ、なんか感じてるな。」
と、気付くことができたので、もう少しその感覚を感じてみると、嫌な感じがありました。
心地よく、ない。
でも、なじみのある感覚。
きっと、けっこうな頻度でこの感覚を感じていて、なじみ深いものになって
いるんだろうなぁ。
いつもだったらこのなじみ深い感覚に気付きながらも、そのまま日常に戻っていくことが多いのだけれど、なんといってもAFPトレーニングをリアルで受講したての私なので(笑)、そのあたりは繊細になっていたのでしょう。
「この感覚を逸らさずに、開いていたい。」
という気持ちが湧いてきました。
心地よくなく、嫌な感覚に「開く」というのは、結構なエネルギーがいるので、自分に余裕がある時でないと難しいかもしれない。
そういう意味で私は今余裕があっていい感じなんだなぁ。
(新たな気付き)
AFPのプラクティスはとても実践的なのだけれど、その所以というのが、日常で身体が感じ取っている感覚にそのまま開き、受け取っていくことに軸足が置かれているということです。
そこが何よりも、大事。
でもそれって、とっても微細な感覚で、本人以外の誰にもわかりようもないことだから、非常に地道で地味な…地味すぎるチャレンジ。
さらに言えば、自分で自分に気付く以外に手段がないものだから、いくらでも逸らせる、逃げられる、関係ないことにできる。
しかも、無意識のうちに、そうできてしまう。
AFPが意識のワークだということは、そういうこと。自分の無意識を意識化していくプロセスにこそ鍵があり、そこにその人の存在感というものが際立って輝き始める宝が眠っているということなのだから。
自分らしく生きる、自分らしくある、という言葉に溢れる昨今だけれど、根底からのそれを、それこそ「自分のものとして」表現して生きていきたいと思うのならば、避けて通ることのできないプロセスであることは明らかなのです。
でもこれは、好みでもあって、それが唯一の方法ということでもないのかもしれないね。
深度が深くなればなるほど真実に近づいていく、そのマニアックな探求が大好物の私にとっては、もうたまらないけれど。
マニアックすぎるがゆえに、万人受けするものではないことも知っています。はい。
さて、その心地よくない、いやな感覚をそのまま、身体全体で感じることを許可し、その感覚を言葉にしてみると、
損している感じ
押し付けられている感じ
やらされている感じ
嫌なものを引き受けさせられている感じ
があることに気付きました。
そして、その後に、
「大切なものを奪われる」
と、感じている自分に気付いたのです。
おぉ…
この心地よくない、嫌な感覚があったとき、仕事関連のやり取りがあったんですね。文字でのやり取りで、相手の言葉も優しかったし、無理強いしているような文面でもないのにかかわらず、その背景にある何かに自分が反応していることに気付いたんです。
その背景というのは、自分の中にあるもの。
思い込みとか、枠とか、色眼鏡とか、そう呼ばれることも多いものだと思うけれど、結局のところ自分の中にあるものが外側に投影される仕組みなんですよね。
で、それを外そうとか、書き替えようとか、そういうメソッドは山ほど溢れていると思うんですけれども。
それらに敬意を払って、讃える。
そしてそのまま「ある」ということを見つめる。
ここがマスタートレーナーのアムリタさんの在り方であり、私が非常に感銘を受けるところのひとつなのです。
心地よくない、嫌だ、けれども、そこに「ある」ことから目を逸らさないこと。
「ある」ということは、そこに意義があるからこそであって、その意義に敬意を払う。
きっと、そこにいてくれて、守ってくれた何かがあるはずだから。
私が今朝感じたそれも、きっと私を守ってくれていたのだと思うのです。
これ以上はやめておいたほうがいいよ。
だって傷つくかもしれないよ。
そういう見方ができた時に、初めて感謝が湧いて、ふっと軽くなる。
排除するのではなく、無視するのでもなく、
ただただ「ある」ことを見つめた時に、愛で満ちる。
世界は愛で出来ている。
そんな眼差しで世界を見られるようになったら、どんな状況でも、どんな時でも、安心に満ちて生きていくことができる。
そんな風に思うのです。
だから、日常のあらゆる瞬間が宝物だし、愛おしい。
生きる、ということが、こんなに愛おしく素晴らしい体験なんだと感じ始めている自分が、とても嬉しいなぁ。