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秋の夜長に
世の中はジャッジにまみれている。
仕事で疲れ果てるとSNSに時間を溶かしてしまうことしかできなくなるのだが、これをやめたい。
SNSに入りびたりになっていると大量の情報を目にする。質の良い考察や、信用に足る文献からの引用もある一方で、粗悪なタレコミ、デマまがいの流布まで。内容の質は置いておいても、そのどれも、投稿者のジャッジを目にしているということだ。大量の、玉石混交のジャッジに晒されていると、自分の価値観でのジャッジができなくなってくる。
行動のための足を奪われていることに気づくとき、それは目にした情報の多さが行動を躊躇させていることがわかる。自分の中に流入してきて精査もしていないジャッジが溢れて、自己判断ができなくなっていることに気づく。
なお私にとって、SNSで目にした情報は質の如何を問わず「吸収」できたものはほとんどなく、そのほとんどが「目にした」という認識だ。たとえば本はその内容を自分で選び、意識してページを繰る。一方でSNSなどで目にする情報は向こうから私に向かってやってくる不特定多数の情報であり、完全に受け身だ。自らの意思を持って情報を得ようとして得たものと、滂沱と流れてくる情報をまるで絵を眺めるように「みつめているだけ」なのとは、意味も役割もちがう。
ところで最近では紙の媒体を通して読んだものしか「読んだ」「吸収した」とカウントできない。電子書籍はどうも馴染まない。これも極端だなと自分でも思うのだが。ipadに落としたkindleでいくつか本を読んでみたけれど、なんだか馴染めない。ipadは役割を果たせず埃をかぶっている。
面白い研究結果があって、画面上の字の間違いよりも紙に書かれた字の間違いのほうが気づきやすいそうだ。また、紙に書いた記録のほうが電子機器に書いた記録よりも記憶に定着するらしい。
SNSからたくさんの有益な情報を得てきたことは事実だ。読んでみたいと思える本もたくさん教えてもらった。しかしSNSに時間を溶かしてばかりでそれを活用する時間がないとはなんという皮肉だろう。暇な時間を有効に使えないのは知性のなさだ。
といいながら、知性とか関係なく、仕事で疲れ切ってベッドに倒れこむとき、SNSを眺めているのは仕事で傷ついた心身を癒しているのと同等の行為だ。無になってスクリーンを眺めている。それしかできない。搾り取られすぎて自発的なことはもう何もできず、ただ流れてくる情報をみつめている。文字情報はもはや絵と等しい。どこかの誰かが推敲した(またはただ垂れ流した)文章を眺めているうちに気づくと意識が遠のき、数時間の深い眠りに堕ちる。
紙に書かれた、推敲された文章を読もうと改めて思ったわけでもないが、今日は仕事関連の書籍を買いに本屋に行ったついでにふと手に取った本を買った。
仕事の、と書いたのは最近仕事で多用するパワーポイントの手引書が欲しかったのだ。これこそ、関連書籍はオンラインで見つけることもできるが、こういった手引書は実際に手に取って開いてみて、自分が使いやすいと感じるものを買う必要がある。語学の参考書なども同じだ。フォント、解説のわかりやすさ、自分が知りたいことが網羅されているか、など。
本屋に行くメリットは、電子辞書ではなく紙の辞書を引くメリットと似ている。本来の目的の「パソコン関連」のコーナーへ向かう道すがら、寄り道ができる。占いの本、趣味の工芸の本、最近売れている本、エッセイ、哲学、語学、寄り道が大好きな私は目移りしてしまう。紙の辞書を引くときの寄り道もそうで、equalを調べると類語がたくさん出てきて私はequilibriumという新しい単語を覚えることが出来た。隣のページに目をやるとescapadeは気ままな行為。これはescape(逃避)の語源らしい。
今日買った本は、寄り道で拾った本だ。誰にも教えたくないぐらい、最初の数ページを読んだだけで「これは宝物に出会えた」と思える本だ。この本は私を奇跡的に大変身させそうなので、私が奇跡の変化をとげるまでは、誰にも教えない。
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大事なことをあとまわしにしているうちにどうでもいいことがどんどん差し込まれて、それに対応しているうちに歳をとっている。大事なことはわざとあとまわしにしているともいえる。「どうでもいいことを対応していて忙しいんだから仕方ない」という言い訳ができるからだ。大事なことは大事すぎて身構えてしまう。取り組むのが怖い。適当にできない。それで無意識的にあとまわしにしておいて「こんなに忙しいんだから、仕方ない」とか言っている。
最近おりてきたメッセージ(私はけっこう天からのメッセージを受信します。怪しい響きにしかならないけど本当です)が「自分のための時間を確保する」だ。でも天啓を受信しても活用しないと意味がない。とにかく時間は作ろうと思えば作れるので、作るのだ。流されて生きていると朝は8時半に起きて8時半に会社のパソコンを開き(在宅なので)、そのまま夜まで昼飯もそこそこにぶっとおしで働いて一日を終える。そんな日々を重ねているうちに、気づいたらおばあさんになっているのだと考えるのが最近はとても怖い。
隙間の時間もあるはずだし、「5分だけ」とつぶやいてとにかく時間を作ってしまうことだ。自分のことを考える時間。
人は便利さを追求しすぎたがためにその便利ツールに振り回されてどんどん時間がなくなっている。今日買った本を読み終わったら次は、エンデのモモを読むつもりだ。
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