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The Artist's Way
2024年11月22日(金)何度かの失恋
私にとっては書くことが何よりの癒しになるので、ただ無心でキーボードを叩いている。
終わりも告げないし終わりの儀式もなかったので、こういう形で終わりを知ると4年越しに辛い。9,000キロの距離を超えて私の胸を刺しに来る。もう4年も妄想を続けてしまった。私以外のパートナーがいるというダニーロは私の知らないダニーロでとまどっている。
私の中では終わったようで終わっていなかったのだ。それを改めて思っている。この不快な感情はきっかけもよくわからず押し寄せて私を押しつぶしてしまう。
4年も離れていても、私はダニーロにとって「いつか戻るパートナー」とどこかで思っていた。
自分の感情と取っ組み合いをしている。無理に乗り越えようと思っても無理だろうと思う。誤魔化してもひょんなことから蘇ってくる。この感情に浸りきって同化してしまうか、ダンスに行ったり友達とディナーを食べに行ったりして一時的に気を紛らわすか。どちらにしても暴れるこの感情が完全に消えてくれるまで、付き合わなきゃいけない。私には誤魔化すことができない。こんなに引きずるのも、条件が揃わないと会えないからだし、その条件を揃えるのが困難だったことと、その困難をふたりで乗り越えるという発想が相手になかった悲しみと、でもなんとかなってたかもしれないという不完全燃焼感。しんどすぎる。
鏡を見ると素敵じゃない自分がいる。10月にばっさり切った髪が伸びている。髪の分け目からフケが出ている。鏡を睨みつける目は恨みたっぷりで、今にも泣きだしそうだ。8時間パソコンに向かい続けた疲労がよけいに悲壮感を漂わせる。
2024年11月23日(土)奇跡が起こったはなし
昨日の日記を読み返すとなんと悲しい日記だろう。実はこのあともつらつらと長い恨み節が書いてあったのだが、思い切ってデリートした。
目覚めると「ダニーロとのことは終わった」というインスピレーションがあった。しつこくしがみつく私に誰かがささやいてくれたのだ。こうでもしないと私は気づけないから。
台湾旅行中のインスピレーションも、今回のようにふと降りてきた。その時のことはここで少し書いている。今年の2月の台湾旅行の、ロッタリーで当たったチケットで部屋のグレードをスイートにグレードアップして、ひとりで寝るには大きすぎる、とても綺麗で寝心地の悪いキングサイズのベッドで目覚めたときの天啓だ。
私の人生のシナリオの30代中盤から40代中盤にかけては、ダニーロのチャプターだ。げらげら笑ってすごしたイノセントな日々。海を渡っても一緒に暮らすと当たり前に思ってたあの頃。そしてしばしのお別れだと思っていたらすぐに襲ってきたコロナのパンデミック。すれちがいと別離。具体的に別れてからもしばらくは、いつかはまた続きが始まると思い込んでいた私一人の長い妄想の日々が3年ほど続いて、そして完全に終わりがきた今。
また44歳のページからすこしずつちがったストーリーが展開されていくのだ。人生のシナリオを書き換えなければならないのだけれど、ペンが止まっている。自分で描いて下書きをしていたかなりの量のページを書き換える作業がまだできずに、途方に暮れている。
やらなきゃいけないのにできない時に、過去ばかり振り返るのは私の悪い癖だ。過去を鮮明に思い出してはペンを走らせてばかりいるいるけれど、過去の写実はもう十分かもしれない(私が気が済むまでやればいいけれど、このnoteで公開するのはもうさすがにしつこいなと自分でも感じている)。
今日はこれからズンバクラスに行ってくる。私は郊外に住んでいるので、どこに行くにも1時間半前には家を出なければならない。久しぶりにダンス用のシューズをバッグに入れて電車に乗る。何か少しでも、新しいことをしたり、自分がやりたかったことをし始めるようにしている。それは人生の新しいページを書き足すときのネタになるかもしれないし、新たなチャプターのメインキャラクターを探しにいくようなものかもしれない。ずっと全てがおっくうで怖くて、部屋にひきこもって泣いていたけれど、やっと「楽しみ」をみつけてみようというところまできた。かなり大きな失恋なのにセラピーも受けなかったので、自分でこのnoteに書いたり泣いたり占いに行きまくったりすることで克服しようとしてきた。回復までにまだ何万回と泣くだろう。でも、1mmでもいいから、部屋にこもらず新しい世界のドアをちょっとだけ開けることを頑張ってみようと思う。
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これは、新宿御苑から帰ってきて、興奮もさめやらぬまま書いている。やっぱり今日はおっくうな気持ちを押して外に出てよかった。
今日は、朝起きると窓の外は風が音を立てて強く吹いていて、ズンバクラスはやめにしておこうという考えが一瞬よぎったのだが、最近の習慣であるモーニングノートを書くために身体を起こした。最近読んでいる本は私の魂、潜在意識が引き寄せたとしか思えない、まるで本の方が私を呼んだようなミラクルな本で、その本は「創造的であるあなたの中の子供を呼び起こしなさい」ということを教えてくれている。知っている人はわざわざ読まなくてもわかるような当たり前のことなのかもしれないが、私は知っていたのに知らないふりをしてすっかり「誰かにとっての聞き分けの良い常識人」になってしまい、死んだ魚の目で会社員をやっているので、本のページを開くごとに「そうだった!」「そうだ、忘れてた!」と開眼する。私の中の小さなアーティストが「やっと思い出してきた?」とニヤニヤしている。本を読みながら魂が震える経験はいつぶりだろう。
とにかくその本がやりなさいとすすめているモーニングノートは、目が覚めたらノート3ページを何はともあれ埋めるのだ。誤字があってもいいし、くだらない愚痴でもぼやきでも上司の悪口でも、何でもいい。思いついた言葉を自動書記のようにつらつらと、脳と手が直結しているかのように、何でもいいから書くのだ。
私はそれを始めて一週間ぐらいになるがダニーロのことばかり書いている。だいたいモーニングノートには見た夢をまず書きつける。ほとんどが私の「思考の夢」で、つまり考えていることが夢になっているだけなのだが、たまにインスピレーションのような夢も見る。目覚めにふと気づくようにメッセージが降りることもある。とにかく見た夢や感じることをそのまま書いている。
私は目が覚めたら(たぶん目覚めるちょっと前から)その日にやらなければならない仕事のことを真っ先に考え出すので、目覚めてから3ページもノートを埋めなければいけないのは気持ちが急いていたが、最近では3ページの感覚に慣れてきて、3ページでは足りない思いになることすらあるが、ひとまず3ページと決められているところでやめている。
ちなみに2か月ぐらいは読み返さないほうが良いとのことなので、最初の頃に何を書いたかよく覚えていないが、モーニングノート初日は満点の星空に流れ星が流れる夢を見た日だったので、3ページがすぐに埋まったのをよく覚えている。
ノートを書いてしまうとすっかり目が覚めるので、着替えて新宿御苑のズンバクラスに向かった。今までヒップホップダンスはやっていたけれど、どうして今までズンバをやってみなかったのかというぐらいにおもしろかった。
1時間ほどのクラスを終えて、スタジオを出るとしゃれたテラスのカフェがあって、角を曲がるとフランス料理の小さなレストランがある。一人で新宿御苑沿いの裏通りを歩いていると、いつかどこかのヨーロッパの道を歩いていた時の錯覚が起きた。私はどこでもだいたい一人が多くて、一人が大好きなんだけど、こんなすてきな街を一緒に並んで歩けるパートナーがいればいいなとやっぱり思う。新宿御苑に住んでみるのもいいな。家賃は高いだろうな。
久しぶりに新宿御苑に入ってみようと裏通りを抜けると、新宿御苑のエントランスは観光客や家族連れ、恋人たちで大混雑だった。私はズンバですっかり軽くなった気持ちを人込みでまた疲れさせたくなかったので、新宿御苑から踵を返して、どこかでランチでもとろうと思った。
花園神社方面へ向かう交差点の一角はなぜかロンドンの一角に見えた。信号待ちをしていた私の隣に、ロンドンに遊びに行ったときに友達になったフランス人の夫婦によく似たカップルが同じく信号待ちをしていたから、そんな錯覚になったかもしれない。それに、信号待ちをしている間、横断歩道のむこう側にアートギャラリーがあることに気づいた。そういえばヨーロッパの街にはアートギャラリーがたくさんあったな。耳元のフランス語を聴きながら、なんだかまた引き続き自分が今ヨーロッパのどこかにいるような錯覚のまま、横断歩道を渡り切ったすぐのアートギャラリーに吸い込まれるように入っていった。
すると、アートギャラリーではなくカフェのようだった。こぢんまりしてこじゃれた、そして輝くようなアートが所狭しと飾ってあるカフェだった。すてきな店だけどここはランチ向きではないな、と思って店を出ようとしたとき、私の目は一点のアートピースに惹きつけられた。思わず、カフェの店員に「この絵の作家は誰ですか」と聞くと、あそこに立っている男性ですと。
さきほどからカフェの一角に不自然に立っていて、どうしてだろうと思っていたその男性が作家だったのだ。カフェの店員と思っていた人はキュレーターだろうか。
私が長年やりたかった鉛筆画ってこういう感じだ。ちょうど窓際に立てかけられていたこともあって、15時近くの陽の光がアートピースにあたって本当に輝いている。見回すとカフェのインテリアと思っていた絵は全部この男性の作品だとわかった。彼はこのカフェを借りて個展を開いていたのだと、ようやく気付いた。名刺をいただくと、大谷一生とあった。
美術の学校を途中で辞めて、自分の作品をあるったけ持ってニューヨークへ行ったこと。ニューヨークのギャラリーを回って売り込んだこと。原宿の路上で絵を売っていたこともあった話。彼の年齢を聞くと、私とそう変わらない。大谷さんがキャンバスに描き続けていた頃、私は役者の夢を諦めた。私は21歳、役者になることを勝手に諦めたその日まで、自分のことをアーティストだと思って疑わずに生きていた。その道を自分で絶ってから、アイデンティティを失い、全てが中途半端なままここまで生きて来たけれど、自分にレッテルを勝手に貼ってたのは自分だったのだ。道なんかは続けていく限り枝分かれして無限に生まれていくのに。
やめない。これがどんなに大事なことか。一番大事なことだ。
大谷さんの絵は、若い頃の私が燃えさかる魂のゆき場がなくてスケッチブックとかにとにかく描きまくっていた頃のパッションを思い出させてくれた。どこか私の絵に似ているなんていうと身の程知らずもいい加減にしろと怒られてしまうが、つまり、かなり私の好みなのだ。さきほど鉛筆画と書いたが、私が買った絵は木炭で描いたとのこと。一目惚れだ。
木炭で描かれたその女性のアートピースを見て、私もまたやってみたいと思えた。その記念に、というかその絵をどうしても自分のものにしなければならない気がして、欲しいと言うとまけてくれた。
私も絵を描きたいと思ってはきたけれど、人の身体が描けないし、うまくないし、他人がどう思うか怖いし、それで今は描いてない。たくさん描きためてきたスケッチブックも全て捨ててしまった、と大谷さんに言ったら(なんでもやめてしまうことが私の最大の欠点だと思う)、
大人になって知識が入ってしまうとだめだよね、人がどう思うかとかうまいとか下手とか関係ない。ただ描けばいい。また描いてみたらいいと思います。スケッチブックを捨てた、というのも意味があることで、また描き始めて、そして続けていけばいい。死ぬときに自分がどう思うか。死んだときにやっておけばよかったと思っても仕方がない。人がどう思うとか人の意見とかじゃなくて、とにかく描けばいい。僕にはモデルさんがいるので、そのモデルさんへの敬意とか思いが絵になる。どういうものを描きたいというゴールがあれば、描ける。
これは全部、一語一句同じではないけれど、大谷さんの言葉だ。神様が、もし神様という言葉がおかしかったら「奇跡という名の贈り物」でも「私を天国から見守っているおばあちゃん」でもなんでもいい。大谷さんを通して私に伝えているとしか思えなかった。
モーニングノートは続けていれば奇跡が起きると本に書いてあったけど、始めて一週間ですでに奇跡が起こっている。奇跡をただの偶然だとか、ただのある一日の出来事だと片づけて記憶の片隅においやってしまえば、それはそれだけのことになる。モーニングノートが引き起こすミラクルは、なにも怪しいマジック的なスピリチュアルなどではなくて、自分が忘れ去ってしまったアーティストの自分が、どういうものを本当はやりたがっているのかを思い出すレッスンなのだ。自分の創造性を思い出すレッスンという名目で毎朝やっているモーニングノートは、ただの夢の記録ではなくて、棺桶にしまいこんでしまった自分の中の創造性をもう一度呼び起こすことなのだ。なぜなら、自分の創造性を思い出したい、という意識がどこかで働いているし、ノートを書いているうちに抱えている問題が解決したりもするのだ。それはなにも、アートに関する疑問だけではなくて、意地悪な上司にどう向かい合えばいいかとか、忘れられない失恋はどういうマインドでいれば少しは辛くないか、なんかも。
人は都合よく忘れる。でも自分の中の「創造性を持つ子供」にとって、忘れられてしまうことはとても都合が悪い。社会的にいつまでもフリーターでいられないし家賃を払うにはもっと良い給料の仕事に就かなければならないし、年齢が上がっていくほどに同世代はどんどんと出世もする。部下を持つ上司になっていくし、「年相応の生き方」とか、貯金額とか、どんな家を買うとか。自分の中のアーティスト、なんて言ってることが馬鹿みたいなことだと思い知らされるから、忘れ去られた創造性は、こうして闇に葬り去られて、一生忘れ去られたままだ。重い腰を上げて、仕事関連の本を探しに本屋へ行った自分を褒めたい。そこで偶然に出会ったこの本に出会わなければ、きっと私は大谷一生さんの絵にも出会わなかった気がするのだ。「素敵な絵だね。私も昔は絵に興味があったよ」とつぶやいてカフェを出ていたと思う。
あれやこれや他人の言葉をうのみにしすぎて、すっかり「誰かにとっての聞き分けの良い常識人」になってしまった。それが一番楽だからかもしれない。人って適当に、無責任に、さも真実っぽいもっともらしいことを言うもんだ。気分によって、また時が経てば言うことも変わる。そんなこと俺は言っていないと後から言う奴もいる。それなのに、自分を信じるよりは誰かのの言葉や価値観のせいにして、創造性なんて出て来ないで、と棺桶に葬り去った。
ずっと解決しない父の性格の謎、家族の問題、仕事に溺れること、溺れたまま沖に上がって自分の時間を持とうとせずSNSに浸ること。もしかしたら私の中の創造性から目をそらす理由に使っていただけかもしれない。
大谷さんに素晴らしい才能があったことがもちろん一番だが、それから、自分を信じる、自分の魂の声を信じることをやめなかったんだ。
私はランチもそこそこに、すぐに世界堂へ向かった。筆もスケッチブックも絵の具も、何もかも種類が多すぎて眩暈がしたが、こういうときは迷わない方がいい。迷いは足を止めるから。絵はチラシの裏にも描けるのだ。バスキアが段ボールに描いたように。スケッチブックは目の粗いざらざらしたタイプを買った。そういうスケッチブックが好きだ、という理由だけ。絵の具もパレットも、色味が好きだという理由だけで深く考えず手に取りレジに向かった。それから欲しかった額と、薔薇を3本。
今、私はもう一度実験をしようと思っている。私にはいくつかやってみたいことがあるのだが、それにはお金がどれくらい必要とか、条件を考えてしまうと止まってしまうのだ。絵を描くこともそうだし、叶えたい夢を、お金や(こんなことしてても金にならないとかいう発想も含めて)条件を持ち出して止めてしまうのを一切やめよう、という実験だ。そういうことは天に任せることにしよう(って言うとめちゃくちゃ胡散臭いスピっぽくなるから抵抗あるけど)。
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久しぶりに観たくなってBasquiatを観ている。
しゃべりすぎるのも私の悪い癖だ。もうそろそろ、アートに向き合っていいよと自分を許そうと思う。下手でも、完璧でなくても、金にならなくても、目的はそこではないので、「表現」しましょう!
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