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わたし、こんなことやってます。


働き方の多様化


2019年に沖縄に移住し、その翌年にコロナが現れ
例外なく沖縄でも緊急事態宣言が発動。

当時、中学生になったばかりの子供たちは新年度始まってすぐ自宅待機。
私は出産間近ということもあり、不安もありました。
が、さすが沖縄(笑)
実は本土に比べるとかなり緩いもんで、、、私は結局ほとんどマスクをした覚えがない。マスク警察という本土で見られるような光景もほぼない。
ユ◯クロのような全国チェーン店ではそうゆう教育があったのか、マスクなしでは店内に入れない、みたいなこともあったようだけど、ほとんどの人は
「なんくるないさぁ〜」といつもよりは少し控えめに、日常生活を送ってた。

実際、私や私の家族はこの4年、一度もコロナに罹ったことはないし
本当はダメだろうけれど、緊急事態宣言の時にはほとんど海で遊んでた。笑
もはや公に許された国民の休日かのように堂々とみんな海でピクニック状態で、この暖かい緩い南国の土地ではそんなに重要視されず。笑


こんな感じで、若い人はワクチン打ってない人がほとんど。
正直、ワクチン問題なんかも本土の問題で、沖縄では騒がれるようなことってあんまりなかったなぁと感じています(賛否両論、接種に関しては個人の自由だと思ってます)

だけども往々にして問題になってきたのは雇用。
私はまだ移住したとはいえ、育休産休中。
なので外資金融機関の大企業での束の間の休暇中でしたので影響はなかったれど、それでも本社近辺は出社が規制され、在宅勤務となったり、営業チームは営業先が出入り禁止となってしまったり。
そもそもの「働き方」がガラッと変わる瞬間だったと思います。

例外なく、沖縄でも同じようなことがたくさん起きました。

そもそも、沖縄は大企業という企業が少なく「正社員」という人たちがそもそも少ないように感じます。

実際、雇用や低所得の問題は深刻であり、キラキラの沖縄の裏側でもある。
コロナのあと、続々と零細企業や中小企業は潰れ、内地企業もどんどん撤退してしまい、観光で有名だった国際通りでは当時、閑古鳥が泣くようなシャッター街になってしまっていた。

なので、職を失い、友人のツテでアルバイトを何個も掛け持ち!
そのような人たちがたくさんいたように感じるが、ここも沖縄の良き地域性
「ゆいまーるの精神」で、皆が助け合い、力を合わせながら、決して悲観的な空気になることはなかったように感じる。

全国的に今まであった当たり前の働き方ではなく、在宅やオンライン、などといった働き方の多様化が進み、私たちは「副業」や「複業」そして「起業」という言葉がどんどん身近に浸透してきた時代の始まり。

起業というフェーズ


とはいえ、大企業にいる私たちにとっては副業は禁止!
(2024年今も多くの企業はまだ禁止のところが多いです)
副業だの複業だの、ましてや起業なんて私には全く別世界のお話でした。

が、先述した通り、沖縄は複業大国!!笑
1人で何個も仕事を掛け持ちしている人たちがほとんどで、「貧乏暇なし」でありある意味「ワークライフバランス」の最先端かもしれない!!!!
なぜかわたしはそう思ったのです。笑

実際、コロナの時期、沖縄の中で活発に行われたのは「マルシェ」
イベントなので、対外的にはマスク必須ではありますが、元気のない街をみんなで明るくしよう!少しでも収入を得よう!という想いで各地でハンドメイドマルシェが行われました。

これも「起業」なんだよってことを教えてもらったのは出産して保育園を探すときにマルシェに出店していたママさんから教えてもらったこと。

起業=事業
私の中では法人化をしていく規模のものだと思っていたけれど
見渡せばマルシェに出店するハンドメイドの人たちはみんな起業して個人事業主。なぜならば保育園に入れるのに職業が必要だから、とのこと。

もう私はびっくり!!!目から鱗!!!!!!!
起業という言葉ののハードルが一気に下がる瞬間でした。。

でも、これも地域の特性なんですよね。

このあたりから「もし私が起業をするなら」ということを考えるようになり
コロナをキッカケに移住した新しい土地で「働き方」を考え始めました。

復職までのリミットと葛藤


産休育休を取った人はみんな通るであろうこの不安感。

私の場合、産休中に移住をしているので、実は挨拶だけでまだ現場で働いたこともない状態。マジで気まずい!笑
しかもそれなりの功績を持っての異動だったので、復職に対しての期待値が死ぬほど高く、本土から来た私を試されているのも間違いない。

二人目の育児であっても上の子とは14歳差。
ほぼ初産に近く、バリバリ働いていた私はいったいどこへ???状態。笑

よくWEBの知恵袋でみるような職場復帰の悩み事なんて私には関係ないと思っていたけれど、自分の心のこと以上に復職には、もう一つ大きなハードルがありました。

「子供の預け先の確保」

私は幼稚園にしか入れたことがない。つまりは3歳までは自宅保育。
でも、育休を延長したとしても1歳半で預けないといけないのは、私にとって本当に苦渋の選択でした。

こんなことを書くと、0歳から預ける人もいるのに!?と思われるかもしれないけれど、子育ての価値観は人それぞれで、私は嫌だったんです。
2人目の子は本当に手がかかる子で大変だったから、正直、子育て経験がある私も毎日ヒィヒィしてました。笑
でもやっぱり死ぬほど可愛かったし、上の子をシングルで仕事と両立しながら死ぬ気で働いてきたからこそ、ゆったりと子育てが出来るこの時間がとにかく愛おしかった。貯金もしっかりしてきたし、育休手当がとにかく手厚いのが大企業で働くメリット!目の前の生活や当面のお金には困らない。
でも、リミットは迫っている中でさぁどうする!?と毎日毎日考える日々。

当時、まだコロナが第◯波と呼ばれるほどの全盛期。
海外へはまだ行けないぐらいの大騒ぎ。懐かしいよね。笑
結果的に、ありがたいことに3人目の妊娠をして、育休延長→産休→育休と連続でお休みをとるという、かなりの大物なことをやってしまう私。笑

銀行だったら退職させられてただろうなぁ。。。
商社だったとしてもきっと気を遣って自己退社に追い込まれてただろうな。

全てはフルコミッション、結果主義の会社にお勤めしていたからこその待遇だったと思います!(決して推奨はしないけど!笑)
長い葛藤の末、奇跡的に私にまたゆっくり自分の人生を整える猶予期間が与えられたのです。

私の中に芽生えた想い


10年ほどシングルでバリキャリで働いてきた私に
神様は束の間の休暇を与えてくれたんだって思いました。

今までは娘のためだけに、後ろ指刺されない生き方だけを目指して生きてきたけれど、今は家族がいて、かわいい子供達にも恵まれ、そして大好きな土地で暮らしている。

特別な環境で育った幼少期を過ごした私は、生まれて初めて「自由なんだ」という感覚を知りました。
そしてそれと同時に「安心・安全」を噛み締めました。

誰かがいるというのはとても安心で、自分の力を最大限に発揮出来るような気がした。それが今までは娘のためという使命感で駆り立てられるものだったのに、今は全然違う。

安心安全というものは、自分があるがまま存在していいという安心感。
だからこそ、この安心感の土台にして初めて「自分とは」という矢印が向けられるということ。

ずっと私は何かを探していたような気がするんです。
その「何か」とは「私の存在意義」

誰かの役に立ちたい、誰かに認められたい、何かの役に立ちたい
自分はここだよー!って声を大にして言いたい!
自分って何?自分には何が出来る??私は何がしたい?何が幸せ???

その答えを探すため、ずっと走り続けてきた気がします。
でも答えはなかなか見つからなかったです。

当時35歳。
都会の高層マンションに住み、年収2000万近く。
上司や部下からも慕われる仕事の出来るシングルマザーが
突然、スライデイングのように現れた、縁もゆかりもない、全然タイプでもない今の主人と再婚し、沖縄に移住。
産休育休で暮らし、毎日ゆっくり散歩して海を眺め、これ以上何を頑張る?
なんのやめに働く?私はどう生きたい?何が幸せ????

ずっと向き合い続けたけれど晴れない道が、急に開け始めたのは
「土台」が整ったからなのかなと、振り返っていて思うこと。

今日もありがとうございました❤️
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ここからいよいよ「起業」への道が始まるのです・・・♡
いつもお読み頂きありがとうございます🌱次回もお楽しみに。

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