戦争に纏わる事・聞いた話

私は祖父を知らない。

父方は父が小学生の頃に、母方は私が生まれてすぐに他界している。
家族からは、戦争が元で体を壊したのは、若くして亡くなった理由の1つだと聞かされている。もしも祖父らに会うことがあったなら、色々なことを聞いてみたい。

ここに、終戦記念日の前後に思い出す話を、書き留めておこうと思う。

父方の祖父

南方の島(多分フィリピン周辺)に、徴用で主に材木の切り出しの為に出国。日本が勝って、行った先が住み易ければ、移住しても良いと考えていた様子だ。その頃は、日本の領土拡大だとか、海外移民政策が普通にあったりしたらしい。

現地の食料事情は悪かったらしい。が、僅かに配給された甘い物を、徴用兵達は日本の我が子を思いながら、現地の子ども達にこっそり分けていたらしい。
子ども達も、何かしらお返しの食料を交換したとかしないとか。

父方の祖母の話

祖父が徴用に行っている間に、幼い子供を病で亡くした。為す術もなく見送り、我が子を一人で葬った。帰国するまで、祖父には言えなかったと、お墓掃除の時に祖母に聞かされた。

母方の祖父

赤紙が来て、満州辺りに出兵したらしい。生き残って帰国した時、色々な事は語らずに、戦友の話をしていたとか。帰国後は、手に職があったので、比較的仕事に恵まれたそうだ。

母方の祖母の話

祖父が出兵中に、食料難で子ども達に食べ物を殆ど与えていた。栄養失調症で目を患いながらも出産。産後の日立が悪く、他界したらしい。母からの話だ。
母も空襲警報の発令をうっすらと覚えていると。防空壕に潜んで難を逃れたそうだ。

知人女性の話

東京大空襲の時、母親に連れられて、小石川から反対方向に走って逃げた。焼夷弾が雨の様に降るのを見ながら逃げ、燃える火の手を逃れた。もう、思い出すのも嫌だと。

知人男性の話

疎開先でもあったが、学徒動員で、信州松代の地下大本営のトンネル工事をしていた。8/15に構内に集められ、玉音放送を聞いて、皆と泣いた。

玉音放送は、学校や公民館に集められて、ラジオから聞いたと言う話をいくつか聞いている。

戦争に纏わる生活の話

誰にいつ聞いたのかもわからない。主に親族からだと思うが、それ以外の方々の話もあると思う。
ただ、そういう内容の話を聞いたことだけが記憶に残っている。

・汽車に乗って、煙で煤けた顔になりながら、食料を求めた。

・いつも僅かな芋と大根飯で、ひもじかった。

・アルマイトの弁当箱が配給された。学校で米の無いお弁当の中身が恥ずかしくて、隠して食べた。

・痩せた人が多かった。

・戦後がとにかく物も食料もなくて、買いたくても無いのが日常だった。

・農家が食べるものを持っていて、羨ましかった。

・農家も不作や、生活の為に野菜や米を売ったが、自家用の食料も手放したので、やはりひもじかった。

・戦争で手足を失った帰国兵が、沢山いた。

・病院にかかることが出来れば治る、怪我や病気も治せなかった。薬もお金も足りなかった。

・白壁に墨を塗って、空襲の標的にならない様に対策をした。

・防空壕を掘った。戦後は防空壕に住んだ人が居たり、貯蔵庫にした人がいた。

主に関東周辺、中部地方に暮らして来たので、その辺りの人の話しか私は聞いていない。
広島や長崎、実戦のあった沖縄、北方領土の話はまた違うと思うし、その土地によって様々異なるかと想像はできるが…。
報道で折に触れて知る所の範囲に過ぎない。映像だとどうしても目を背けたくなる。…正直、怖い。

・アメリカに追いつけ追い越せと、ひたすら働いた。

・頑張れば、いつかきっと…と働いた。

・食べる為に、なり振り構わず働いた。
 多少あくどいことも、ずるいと思うこともあった。

・学ぶことを諦めざるを得なかった。

…この辺りの話は、多分その時代を生きた方々が体感なさったことだろうと思う。
そして、これは今もあると言えばあるかとも思う。

聞かされた話を私は、子供心に忘れてはいけないと思った。大人になって解る話もあるからと、少し聞かされた。

子供の頃の私にも、大人になってからの私にも、語る人達は、私に語る内容を、それぞれ選んでくれた。何故か当時を、誇らしげに語る人に出会ってはいない。

父は戦後の暮らしの多くを語らなかった。つらい体験だったからだと思う。
ただ、沖縄問題と北方領土問題の経緯は、淡々と教えてくれた。子供の私の疑問に答える形でだった。

大人になった時のお前たちが、選挙で変えられる事もある。すぐできる事と後でできあがる事がある。時代によって、良しとされることも変わる。だから、世の中をよく見て考えなさいと。

今で言うヘルシーフードの、雑穀や穀物フレーク、混ぜ物の多いご飯を父は嫌った。
継ぎ当てファッションや、パッチワーク系の布地もだ。戦後の混乱期を思い出すから、白米、衛生的でこ綺麗な衣類、身なりが良いと言っていた。
ご馳走は白米。砂糖を使った料理で満腹。
継ぎはぎの無い衣類、整った髪型に女性のお化粧は、豊かな暮らしの証らしい。

消しゴムも鉛筆も、綺麗なノートも、石版を使って文字を学んだ世代には、贅沢品と言われた。

今の私が思い出せる当時の事を聞いた話は、この位だろうか。
普段は記憶の奥の方にしまってある話だが、完全に忘れてしまう前に、書いておこうと思った。

最後に…

この先の日本の終戦記念日が、ずっとこの一日限定の終戦記念日であります様に。

世界の現在戦時下にある国々に、早く終戦記念日が来ます様に。

よろしくお願いいたします。