スクランブル交差点の上の方
横断歩道の信号待ちをしながら私は、街の季節を感じつつ、空を見上げていることが多い。
そんな時に、周りの人々の会話が耳に入ってくることもある。
男の子とお母さんの会話
ある梅雨の晴れ間の日
「ママ、虹、虹があるよ!」
「どこにあるの?」
「そこ、そこ、上のところ!」
子供の指さす方を見る母親と同じように、周囲の信号の待ち人達が、それぞれ何となく、然り気無さを装い空を見上げるが、虹は無い。
「ママ見て見て、あそこだよ!」
「どこ、どこ?」
子供の声がよく響く。しかし空に虹はない。
「あるじゃん!緑の虹!」
緑の虹?
上と言うのは空ではなく、看板に描かれた緑と青の半円が書かれた某鉄道のロゴマーク。
「ああ、看板ね!あるある。虹ね。」
「ママ、見えた?」
「見えたよ」
横断歩道の信号から、鳥の様な電子音声が流れた。信号の待ち人達が一斉に俯いて歩き出した。
白い杖のご婦人
ある秋晴れの日
「良いお天気ですわね。」
「そうですね、とても良い風が吹きますね。」
とても穏やかで、丁寧な言葉遣いの会話が耳に入る。
「今日は空が青くて、澄んでいます。そして薄い雲が少し、小さくあちらこちらに浮かんでおります。」
「まぁ、それはとても綺麗でしょうね。」
「はい、とても綺麗ですよ。」
とても丁寧な話し方、柔らかいトーンの会話を聞いて隣を見れば、白い杖をつき、介助者の腕につかまるご婦人が居た。
「ぼんやりとしか見えなくなって、だいぶ経ちますけど、目に浮かぶようですわ。」
そう穏やかに仰って、空を見上げて居た。つばの大きな帽子で、表情は見えなかった。
「そうですか。それは良かった。では、行きましょう。」
歩行者信号が青に変わったスクランブル交差点を、ゆっくりと歩き出すお2人を追い越して、私は道を急いだ。そして、横断歩道を渡り終えると、もう一度空を見上げた。
確かに美しく青い空が、横断歩道の上に広がっていた。そこをのんびりと、小さな白い雲がポツンと、風と雲のペースで渡って行った。
同じ空を見ている。そして違うものも見ている。
みんな同じ空の下に生きて居る。同じ空を見ている。だけど、同じ時代の同じ場所に居ても、見えているものが同じとは限らない。そんな風に思うことが、何処か物悲しくもあり、力強く思えたりする。
誰かの定めた合理的な間隔で点滅する信号に、あっちに行け、こっちに行けと指示されて、日々変わりゆく世の中は、誰かと同じでなくてもよくて。自由であるための規則は、時に不自由。でも何かに共感したくて、誰かと同じで居たかったりする。
良いも悪いも両方見て、いろんな秤にかけて、ものさしで測って、何となく安心してみたりする。
誰かの合図に立ち止まり、自分に都合のよい解釈をして、自分を肯定していく。そして歩き出す。
誰かの定めた、横断歩道と言う安全性高めの空間。それをしばし共有して、その先へとそれぞれに歩いてゆく。
などと曖昧な思考に囚われて、今日も立ち止まる信号待ちの2分間。
隣に立って信号を待つ人と、何となく見上げる空の色は、少し違う青に見えるかも知れない。雲の動きを追う人、遠くの誰かを思う人、思い出に浸る人、未来を思う人。
十人十色の空そこに広がる。
スクランブル交差点。
よろしくお願いいたします。