N時代~異食、のようなもの
「ロウって食べられるんだって」
そう言ったのは小学校の同じクラスの女の子だったかな。ロウが食べられる。その事にわくわくしてしまって、食べてみたい!と思う子どもってどうなんだろう。それが私。
その子が言っていたのは天然の蜜蝋の事だったのだろうが、当時の子どもにはロウといえばローソクのロウ。学校から帰って、早速学習机の引き出しをゴソゴソかきまわす。去年のクリスマスケーキだかに付いてきた細い3~4センチほどの赤いローソクを見つける。
ポッキーみたいに食べる。芯は勿論食べないが、ローソクをしばらくもぐもぐと口中で咀嚼する。何の味もしない。口の中で溶けないので、噛み砕かれたロウがもさもさと舌の上にいつまでもある。
「美味しいことと、食べられることとは、イコールではない」
その事を学んだ私は、仕方なく口の中で粉砕されたローソクを飲み込んだ。
クリスマスケーキのおまけのパラフィンローソクは、美味しくもなく、食べられないが食べてもどうということもなかった。
なぜか、通常の食べ物じゃないものが好きだった。子どもの頃、父親の実家に寄る時に乗る列車の中で食べる駅弁に付いてくる、プラスチックの容器に入った熱いお茶がとても好きだった。
針金の取っ手のついた容器の中に茶葉のティーバッグを沈めたお湯で出たお茶を小さなフタに注ぎ入れて啜るように飲む。
お茶に容器のプラスチックの匂いが溶けこんでおり、そのプラスチック臭いお茶がたまらなくおいしい。滅多に飲めないから特別な感じが良かったのかもしれないが、あのプラスチック臭は私の懐かしの思い出ベストテンに入ると思う。
同じく車内販売で買ってもらって食べた赤い網入りの冷凍みかんもちょっとそんな感じがした。
食べ物らしくない食べ物。駅弁のおかずとかもそんな感じがする。プラスチックでできたみたいな食べ物。石油くさいような食べ物。美味しいかどうかより、疑似食べ物みたいなところがいい。
だからあまり味とかはしない方がよくて、旨味とかも不要で、なんとなくしょっぱいゴムを食べてるみたいな、食べてる間、途方にくれた顔みたいになるのがよい。
今は駅弁も美味しくなっているし、かえってそんな体験はできないだろうけれど、もう一度旅路の途中の浮いたような時間の中で、そこでしか食べられない食べ物モドキみたいなものを食べて、プラスチック臭い熱いお茶を飲んでみたいものだ。
異食、というのは食べ物以外のものを食べてしまうことだけれど、思い出すのは、大阪の石切神社の参道にあった漢方薬店?か何かの絵にあった、『壁土を食べるこども』。
あれはこわかったが、漢方薬というのも、鉱物とか木の根とか貝殻とか、およそ食用ではないようなものからも薬を作るから、人体はもしかしたらそういうものを欲する所があるのかもしれない。
壁土が美味しそうに見えて食べてしまうのは、身体が土に含まれるミネラルを欲するからだ…と言われたらそんな気もするし。
かと言って、私がローソクを食べたりプラスチック臭いお茶を好んだりしたのは、それとは少し違うような気がする。
私は多分、普通に食べて普通に大きくなるのがイヤだったのではないか。何か別の方法、例えば食べ物じゃないものを食べる事により、普通じゃないやり方をみつけることができるのではないかと思っていたような気が、今になってする。魔法使いになりたい、みたいな感じかもしれない。その時すでに、周りの世界が自分にとって好ましくなかった、ということか。
どこか感じる退屈(なんでこんなことしなくちゃいけないの)と、周りから強制される様々なこと(学校とか行事とか苦手な体育の授業とか!)など。
毎日の生活が辛いとか、大変ということは決してなかったけれど、ぼんやりと感じていた「ここじゃないどこか」へ行きたい気持ち、ここには無い何かもっと別のものを見つけたい気持ちが、ふつふつとあって、無意識にトライし、周りに探していたのかもしれないと思う。
そうしてそれは今も続いているのかもしれない。