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人生100年時代の意味

 近所に美味しいフレンチビストロのお店がある。マスターはちょっと頑固者だけど、腕は確かでいつも美味しい。メインだけじゃなくて、サラダもスープも👌なのだ。
 ママさんは私と同い年で、保護猫活動も熱心にされていて、家の猫は3匹ともこちらからご縁をいただいた。
 久しぶりにそこへランチを食べに行った。ガッツリ行く!と、ビーフカツランチを。写真はないの。来たらすぐ食べちゃうから…😅


 ママさんは私がメンタル病んで仕事辞めたのを知っているので、色々心配してくれて、
耳寄りお仕事情報なんかも教えてくれた。
 そのうち、病気と寿命の話になり、自分は何歳まで生きると思うか、みたいな話になった。
 私はずっとお付き合いする病気を抱えていてこの度メンタルも病んだし、あんまり自信が無いから、「いや~、わからないわ。とりあえず、あと10年は頑張りたいかな」と言うと、ママいわく、「私は90までは生きるで!」と力強く言う。
 ママも決して身体が丈夫な方ではないし、華奢な方だから、「へえ~、すごい自信やねぇ」と返すと、「ちゃうねん。そんな簡単に死なれへんねんで」と言う。


 なんでも、お向かいに住んでる90歳近いおじいちゃんが、胃癌で胃を全部取り腎臓も悪くて透析しつつ、他にも数々の不調を抱えて車椅子生活を送っているのだが、何度も危機的状況に陥って入院するも、必ずフェニックスの如く復活&退院するらしい。

 「今は医療技術が進んでるから、そんな簡単に死なせてくれへんねんで」

 はあ~、そういうことか。成る程。
確かに、医療技術は日進月歩、IPS細胞とやらで身体のパーツだって、モノによっては再生可能な時代である。昔はSFみたいな事が、現実に目の前にある。身体にガタが来たら全とっかえして、サイボーグにだってなれるかもしれない。
 
私 : 「え~、じゃあ、長生き前提で生活設計せなあかんなあ。年金とかどうしよ。」
ママ : 「あまりアテにできへんやろなあ」
私 :  「大体、もともとそんなに無いし」
ママ : 「やっぱり身体が自分で動かせないとアカンわ。身体さえ動けばなんとかなる」
私 : 「確かに。でも身体元気でも、ボケたら?」
ママ : 「ソレな。はっきり言って、誰よりも先にボケなアカンで」
私 : 「笑😃」
ママ : 「ボケた人には罪はない。ボケてしまえばわからない。ボケたもの勝ち」
私 : 「そうかなあ~、ボケても何もかも解らなくなるわけでもないんちがうかなあ」
ママ : 「関西人は、切羽詰まったらアホのふりするやろ。アレやで。最強やで。」

何故かふと、野々村号泣議員の顔が浮かんだ。

 妙に説得力のある意見ではあった。
 なかなか死ぬことができない時代。命は半永久的に使い回されるのだろうか。
 身体が全とっかえになって、いつも調子悪いんだけど、お陀仏にはならない状態。
 人の命は地球より重い。いや、重すぎてなんか扱い方がわからなくなってきた。
 このまま行ったら、究極、死に方をデザインするようになると思うのだが。
 死のセルフ・プロデュース。
 そうなったら、死ぬ事はエンタメになり、ギャグにすらなるのかもしれない。
 不慮の事故や災害による不幸との対比が、逆に浮かび上がってくる。
 意志と、運命と、天命と。
 とりあえず、生きられるところまでは生きなければならないけど、状況によっては、自分の「死」のイメージとは、全く違う所に行き着くのかもしれない。
 メメント・モリ がむつかしい。
 何も考えず、アホーになって生きるのが得策かもしれませんことよ、奥様。👀🐸🐌🐞🐬
 


 

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