【私の推し事論】見返りを求めたら応援とは言えない

「推し事には無欲主義」

根っからのオタク気質で物心ついたころから常に何かを追いかけている私がモットーとしていること。見返りを求めた時点でそれはもう純粋な応援とは言えないと考えているから。

その人の表現やパフォーマンスに何かを感じて、心を動かされてファンになる。その先にあるのが応援。そしてその応援を受けてまた演じ手が何かしらの発信をする。

それ以上に何があるのか。

舞台上で輝く姿を観て、感動して元気をもらう。幸せだなーって感じる。そうやって受け取ったモノに対して感謝を伝えたくて、次の活動へのほんの一助になれたらと思って応援する。それだけ。

もちろん、コンサートに行ってファンサービスをもらえたり、観劇後に客出しで少しでもお話できる機会があったりしたら嬉しい。でも、それはあくまでも厚意であってそういう+αの部分が目的になってはいけないと思う。

「こんなに○○しているのだから、もっとこうしてほしい」っていう欲が出てきた時点で、それはもう応援ではなくただのエゴ。相手を想ってしているはずの行為なのに、そこに見返りを求めるなんてお門違いもいいところだ。

それって結局、構ってもらえている自分が可愛いだけで、相手への思いやりより自己愛が上回ってしまっているように思う。最初はきっと、感謝されたくて、覚えてもらいたくて応援し始めたわけじゃないはずなのに。(繋がれるから、ファンサくれるから、覚えてくれるから、という観点でしか追いかけられない承認欲求の塊の似非ファンは除外)

それに、そういう欲が出てくると自分の欲望が満たされなかった時に湧き起こる負の感情も大きくなる。好きで応援しているのに、せっかく元気をもらえる場所なのに、そこに少しでもネガティブな気持ちが生まれてしまったら、本末転倒じゃないのかなぁ。なんて。

彼らはパフォーマンスという形ですでにたくさんのものを与えてくれているのに、その先にさらに見返りを求めるなんて至極おかしな話。応援って相手のためにするものであって、自分の為にする行為じゃないのにね。(その応援が次の活動に繋がって、結果的に自分の幸せにつながるわけだから、ある意味自分の為でもあるけれど)

最近一番熱を持って応援している界隈の惨状をみていて、そんなことを考えている毎日。

私は大好きな彼らが今日も生きていてくれるだけで幸せだけどね。欲張ったり僻んだり妬んだり、自ら幸せの範囲を狭めるような思考にはなりたくないな。

※自分が感じていることのメモなので、何かを否定したり攻撃したりしているわけではないです。念のため……

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