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山怪バンライフ ⑤

宴の後


 目が覚めると夜は明けていて、窓から日が差し込んで車内も明るい。
 いつ寝支度を整えたのか思い出せないが、荷室に敷いたマットレスの上で自分はちゃんと寝袋にくるまって寝ている。

 妻と一緒に日本全国の温泉場を旅して回ろうと、少しずつ車を車中泊仕様にカスタマイズしていた。まだ完成形には遠く、中途半端な状態ではあったが、とりあえず自分一人が夜眠る分には問題ないようだ。

 芋虫状の寝袋から身体を出そうとモゾモゾ動いていると、後頭部の辺りがかなり痛んだ。身体も重く、たまらなく怠い。これは完全に二日酔いだ。自然としかめ面になりながら、後部ドアから外に出る。

 火が消えた炭火台は昨夜からそのまま外に出しっぱなしで、すぐ側には自分のチェアとランタンが置いてある。ヤマネさんが座っていた椅子はなくなっていて、その代わりに小さい段ボール箱が残されていた。たしか中身は彼特製の木炭だ。

 木炭入りの段ボールの上には小さな木製の煙草盆のようなものが置かれ、そこに紙のメモが添えてあった。
「昨夜はありがとう。楽しい夜でした。これは卓上ミニ火鉢みたいなものです。まだ試作品だけど、ぜひ使ってみて下さい」
 なかなかの達筆で、しかも筆文字だ。
 あの人、わざわざ筆ペンとか持ち歩いてるのか。なるほど、風情とか風流を大事にしてるんだなと感心しながら、まとめてミニバンの荷台に運び込んだ。二日酔いの上に体力もないので、それだけの作業もきつく感じた。

「さて、それでは本来の目的に戻ります」
 荷室を片付けて環境を整え、そこで私は宣言する。
 それを聞いているのは自分自身、そして目の前に置いた妻の骨壺だけにしろ、事件の謎解きでも始めるような口調で、はっきりと声にして言った。それは何というか、かつて探偵であった自分の癖とか形式のようなもので、とくに意味はない。

 昨夜ヤマネさんに貰った木炭を、これまた彼の手作りらしい卓上火鉢にセットしながら、私はまた独り意味もなくしゃべる。
「練炭、全部使っちゃってさ。また買いに行かなきゃなんないとこだったから、助かったよ。……あれ、たしかに火のつきが良いかもな」
「さあどうだろう、あんま変わらなくない?」と、ちょっと懐疑的な性格の妻なら言うだろう。まあそれくらいの微妙な違いだ。

 それでも小さな火鉢の中で赤々と火を宿した木炭には、どこかしら風情の様なものが感じられた。自殺に用いる木炭に、風情や風流といったものが必要なのかはよく分からないが。

「炭火ばっちり、車内は密閉。あとは待つだけ。……どうだい、カナコちゃん」
 もちろん妻からの返事はない。
 また骨壷を揺さぶってみれば、あのカラカラという乾いた音が自分の脳内で彼女の声に変換されるかもしれない。
 しかしそんな事に意味はないのだ。

 これで自分も死んで霊にでもなれば、彼女との会話もまた普通に楽しめるようになるのだろうかと私は考える。お互い霊同士になるのだから。それともこの「私」という意識も存在も、霊魂といったものも全部なくなって、ただそれだけの話なのか……まあ、もう何でもいい。
 とにかくあとは待つだけだ。

「そうだ、あの世に行こう」
 昔よくCMで流れていたフレーズと特徴的なBGMが頭に浮かんできた。しかし「そうだ」なんて、いま急に思い立ったわけでもなく、かねてより自分は死のうとしていたのだ。それが昨日は朝から稲荷寿司など食べて晩にはホルモンまで焼き、さらには見ず知らずの他人と酒まで飲んでしまった。
 期せずして最後の晩餐を変に楽しんでしまったが、これでようやく本来の目的に戻った。

 私は死ぬ。
 妻のいない世界に自分がいる事はできない。他にする事は何もない。

「サウナ入ってる間に死ぬような感じ? いやちょっと違うか。まあ死因は酸欠だろうし」
 締め切った車内の温度がじわじわと上がってくるのが分かった。うっすらと肌が汗ばんでいる。だんだん頭もぼんやりしてきた。これは二日酔いのせいではないだろう。

「死のう死のう、そうしよう。そういえば昔『死のう団』って人たちもいたらしいね。死のう死のうって、お祭りみたいに皆んなで掛け声かけながら。ちょっと変だよな」
 返事をしない妻に私は意味もなく語りかける。
 さっきからまた独り言ばかりで、何となくテンションも高い。これは二日酔いのせいもあるだろう。だがその内、急に気分が沈み込んでくる。それもいつもの二日酔いのパターンだ。
 だったら酒が頭に残ってテンションが上がっているこの勢いのまま、ひと思いに死んでしまおう。自分はそんなふうに考えていた。

 二日酔いの脳の状態は鬱病患者のそれと同じ様相になっているらしいと何かで聞いたことがあった。
 これまでの自分の経験的に、それはかなり納得できる。

 妻が亡くなって以来、ただでさえ何の気力もわかない。その上更に鬱まで進めば、自ら死ぬなんて逆にそんな大きなアクションを私が起こせる気がしなかった。
 やるなら、今のタイミングしかない。

突然の出現


「……あ、これは」
 急にそこで腹が痛くなって、黒い霞の様に頭にかかっていた希死念慮が途端に吹き飛んでしまった。

 下腹部に鋭く差し込むリアルな痛み、この感覚。
 ついにやって来た、久方ぶりの便意だった。

 そして久しぶりなだけに、これまで経験した事のない程に強烈で猶予のない、ひどく切迫した予兆。矢も楯もたまらず火鉢を置いたテーブルや骨壺を押しのけ、私は慎重に後部ドアをスライドさせてゆっくりと車外へ。あまり大きく派手に動けば途端にそれが漏れ出てしまう。

「まだ、まだまだ……がんばれ自分、がんばれ自分」
 腹と尻に手を当て、私は必死で自分に言い聞かせる。

 車外に足を踏み出しながらベルトの金具を外して、それからズボンと下着を慎重に下ろした。下半身の圧迫が開放され、むき出しになった尻が外気にふれる。それがまた決定的な刺激になり、これはいよいよ我慢が効かない。もはや一刻の猶予もなかった。

 それでも自分の車から、なるべく遠くへ離れようとはした。
 その結果、ちょうど昨晩バーベキューをした所で私の括約筋は限界を迎えた。 

 温かく生々しい、湿り気を帯びた固形物が何とも勢い良く私の門をむりむりと通り抜け、次々と地に落ちていく。股の間から逆さまに、私はその様をじっと眺めていた。

 これだけのものが自分の腹についさっきまで収まっていたなんて、ちょっと信じられない。

 うず高く積み重なっていく茶色い排泄物が白い湯気をほかほかと立て、鼻をつく便臭が澄んだ山の空気に漂い入り混じっていく。
 まさに有機的な光景だった。

 そうやって野糞を垂れている間、何かしら爽快な感覚、自然との一体感や自己からの開放といったものを感じなかったと言えば、それは嘘になる。

 実の所、大変に気分が良かった。

「くそ」
 しかし下腹に溜まっていたものを残らず出せるだけ出してしまうと、そうしたポジティブな意識の高揚、開放感といったものは何処かへと消え去って——あるいはベクトルが反転されて——私の気分はまた急速に沈み込んでいった。

「くそったれ」
 何にせよ、後処理が手間で憂鬱にもなる。下着とズボンをそのまま上げるわけには勿論いかず、つまり尻を拭かないわけにもいかないので、とにかく衣服を汚さぬよう慎重にゆっくりと、ズボンと下着を下ろしたままの間抜けで不自由な格好のまま現場からぎこちなく遠ざかり、私は自分の車まで戻らなくてはならなかった。そんな姿を誰にも見られる心配のない山の中だという事が、せめてもの救いだった。

 苦心に苦心を重ねてバンの荷室からトイレットペーパーを何とか探し当て、それからやっと私は自分の尻を拭き清めた。どうにか衣服を汚さずにすんだ。

「くそみたいに死にたい気分」
 そう、自分は死のうとしていたのだ。
 だったら糞なんて死にながらそのまま漏らせば良かったのだ。それが何でこんな苦労をして後始末をしているのか。

 使用済みの紙を糞の上に被せてチャッカマンで火をつけた。薄い便所紙は一気に燃え上がり、それで自分の糞も少し焼き焦げたに違いない。ヤケクソの様に死んでやろうとして、それがまたもや失敗。結果として本物の焼けた糞を現出させた自分という存在……それがひどく滑稽に思えてくる。

「良識として、なるべく自然には優しく丁重に。畏敬の心を持って接するべきだね。いわば山中のマナー」
 昨晩の宴席で気分良く酔っていたヤマネさんが「野糞の流儀」について講釈を垂れていたのを思い出した。

 そういうわけで私は車に積んであった携帯シャベルで小さな穴を掘り、排泄物と便所紙の燃えカスをそこに移して、それからコンロに残った灰もそこに一緒に撒いて、上から元の土をかぶせて足で踏み固めた。

 さあ、これで完璧に痕跡が消えた。自然に優しく、丁重なふるまいだ。元の育ちのわりには私はなかなか素直で行儀が良くネイチャー度も高い。誰か褒めて欲しい。

 寝起きから早々、自殺失敗にそこからの野糞……実際かなりのハードワークになってしまった。とにかく私は疲れた。

 ひとまずコーヒーでも煎れようかと思っていると車の走行音が遠くから聞こえ、それがだんだんこちらに近づいてくる。「明日の朝、早くに発つ」と言っていたヤマネさんが戻って来たのかもしれない。
 
 自然にやさしくマナーの良い野糞を垂れる事が出来たと彼に報告すべきだろうかと私は思案した。それもどうだろう、やっぱり黙っておこうと考え直した。

 しかしやって来た車はヤマネさんのジムニーではなく、大型のワゴン車——恐らくは独自にカスタマイズしたハイエース——で、それが自分のすぐ近くまで来て停車した。

「……こんにちは」
 運転席から降りてきた男が、少しぶっきらぼうな調子で挨拶をしてきた。
 低くて渋い、いかにも男らしい声、それから妙に鋭い目つきがちょっと気になった。しかしそれ以上に気になるのは、この男が降り立ったのが、ちょうどさっき私が自分の糞を埋めた所だという事だった。

「ここでキャンプしているんですか」
 私の車や炭火台にチェアなどに視線を向け、男が訊いてくる。
「まあ、そんな所です」
 男の足元をじっと見つめながら、私は曖昧な返事をした。



次回へ続く


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民話ブログ
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