山怪バンライフ ①
死出の旅へと
妻が死んだ。もう自分には何もない。何をする気にもなれない。だが飯を食わなければお前も死ぬのだぞと誰かに言われた。言われたような気がしただけかもしれない。部屋はずっと薄暗く、自分がいつ眠り、いつ起きているのかも判然としない。ずっと時間の流れが感じられない。しかし体重は二十キロ近く落ちている。
どこにも出かけずにいたので、すっかり足が萎えていた。手の平から錠剤がこぼれ落ちて床に転がり、かがみ込んでそれを拾うのだが自力では立ち上がれない。そのまま部屋の隅まで這い進み、すがりつくようにしてソファの座面に上がる。仰向けになり、暫く荒い息を吐いた。そこが私の定位置で基本的にはそこから動かない。動く気にならない。
「……ねえ、そろそろ起きたら」
テーブルの上に置かれた骨壺が語りかけてくる。死んだはずの妻の声で。
「うん。そろそろだとは思ってる」
幻聴に決まっている声に私は応えた。
ソファからはみ出した自分の足がテーブルに当たり、骨壺が揺れて微かな音を立てた。自分の病んだ脳が、それを妻の声に変換した。
そんな事は分かっている。
「……」
だからそれきりでカナコは何も言わない。
「車のバッテリー、上がってるかな」
そうやってまた独りつぶやいて、ソファから身を起こす。よろめきながら立ち上がって、最低限の身支度を整え始めた。
車窓の思い出
商用の軽バンというわりには、山道でもよく走った。加速やブレーキングにもストレスを感じない。ペーパードライバーだった自分のハンドル捌きも何だか軽く、滑らかなものに思えてくる。
「ね? やっぱり新車にして正解」
「中古でも4WD仕様のやつ、結構あったけど」
「エンジンの調子とか実際分かんないじゃん。何があるか分かんないのが中古の怖いとこ」
「まあね」
くねくねとした峠道を小一時間ばかり走っていると運転にもすっかり慣れて、彼女との会話もスムーズに交わせる。
「こういう景色も久しぶり」
緑が濃い。窓の外に流れる景色は新緑の木々の連なりで、陽光を通して一枚一枚の葉が輝いていた。大きなカーブに差し掛かる。ガードレールの向こうは断崖で、崖下には渓流が走っている。
「こう天気が良いと、何ていうか『日本の美しい情景百選』……みたいな」
助手席の妻はいつになくよくしゃべり、それに私は相づちを打つ。彼女の言った通り、こんな景色をいつか二人で見たなと思う。
「実家の裏の、御山」
妻がぽつりと言った。
……ああ、そうだった。たしかに似ている。あれはもう何年前の事になるだろう。
「ずっと思い出さないようにしてたね」
その土地にまつわる忌まわしい出来事の数々、だがそれだけではなく……いや、その中にあってこその、大切な記憶もあった。
私とカナコは、そこで出会ったのだから。
峠のエクソダス
ようやく峠を登り切ったかと思えば、すぐ下りに、それからまた登り道に入る。しばらくずっとその繰り返しが続いた。
深い山の中に、どんどん分け入っていく。
崖から迫り出すような隧道に差し掛かった頃に空模様が崩れ始め、辺りの景色は次第に薄暗くなっていった。
「すぐに天気が変わるのも、御山ならではだね」と妻が隣で言う。
最初ぽつりと降り出した雨は次第に激しくなり、道路と木々をあっという間に濡らした。
すっかり暗くなった緑のトンネルを抜けるように、自分たちの車は走った。
「……本当にそうするの?」
助手席に置いた骨壺が、また私に問うてくる。
山道のカーブや舗装道のガタつき加減でひっきりなしに壺が揺れ、中の遺骨がカタカタと鳴る。彼女の声は、だから頻繁に響いていた。
「それで、わたしが喜ぶと思う?」
いかにもカナコが、私の妻が、真剣に怒っているときのような声色で、また骨壺がしゃべる。なかなかの再現度だなと自分でも感心する。
「いいんだ、これで。もう他にする事もない」
はっきりと声に出して幻聴に返事をして、私はアクセルを大きく踏みこんだ。ターボ付きのエンジンの調子はとても良い。
生前の妻が言った通り、新車にして良かったなと私はいま思っている。
「この先、道が大きく曲がっています」
「やっぱり止めようよ」
「減速して下さい」
「こんなの意味がないって、わたしずっと言ってる」
「減速して下さい」
「止めてよ」
ナビの機械音声と妻の声あるいはシートベルトで固定した壺の中で骨が鳴る音が騒ぎ出して大声で混ざり合い、フロントガラスには大きく左にカーブしたガードレールが迫ってくる。
汚れて古びたレールは事故か何かで途中で崩れ落ちていて、その裂け目が私には何かしらのエクソダス……非常口のように見えていた。
「まあ何ていうか、空中散骨? ちょっとややこしいけど、後追いの無理心中にもなるか」
そんな独り言を言っているうちにフルアクセルでカーブに突っ込んでレールの隙間をさらに大きく突き破り、車は一気に宙へと飛び出した。
バンパーからの衝撃、続けて自分の尻がシートから浮かぶような感覚、フロントガラスには雨模様の曇天がどんより大きく広がり、でもその先の空には黒い雲の切れ目、そこから一筋の光がきれいに差し込んで……ああ、まるで希望の光だねなんて、いかにも象徴的で類型的な映画のわざらしい演出みたいなビジョン……自分はそれを瞬く間に味わうのだが、空を飛ぶような恍惚の時間はすぐに過ぎ去って、
どこまでも深い山の濃い緑の暗さ、その奥底に吸い込まれるように、自分たちを乗せた車は落下していった。
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