クラゲでもない
やっと見つけた仕事をまたもやクビになって、さすがに気持ちが沈み込んだ。
どうもこのままでは生きていけそうにない。もう自分にはなんの縛りもなく、その代わり安定した給料も社会保障もなにも得られない。ただこの社会の片隅で、それも底辺に近いところをたよりなく漂う。そんな宙ぶらりんな日々がまた繰り返される。
だから、山にでも登ろうかと思った。
深い山林、峻厳な登山道をひとり歩き、やがて一気に景色が開ける高みに至る。そこで清涼に澄んだ空気を、肺一杯に大きく吸い込む。
なるべく天に近いような、人里離れた崇高な場所にこの身を置きたかった。そこから自分は再生する。すべてをやり直す。そういう心境だった。
「もともと山登りしてる人なんだ?」
後始末をしながら彼女が訊いてきた。
シャツのボタンを留めながら、僕はそれに答える。
「いや、全然。でも小学校の行事とかで」
「え、それって林間学校とか?」
「うん。それくらいかもな、山登りなんて」
「うわ、マジだ。それで登山? しかも単独行で、それなりの標高のとこ? ……ねえ、死んじゃうよ? まともな装備とかあるの? 下手したら、いまの季節だって普通に死ぬから。だって山だよ」
そこで急に饒舌になって、彼女はまくし立てた。
山というものに対して、なにか特別な思い入れがあるのだろうか。例えば山岳部出身で無二の親友が山で死んだとか、そういう類いのエピソード。しかし目の前の彼女は、とてもそんなふうには見えない。
彼女はいわゆるギャル系のヘアスタイルにメイク、山歩きより町歩きを楽しむタイプに見える。まあ、そうしたタイプを選んで指名したのだから、それは当然なわけだが。ちなみに指名料はプラス二千円だった。
ここはいわゆる性風俗店で、基本料金は九〇分で三万五千円。本番あり。いかにもギャルという感じの彼女を指名したのは、今回がはじめてだった。
「……生まれ変わりたい、そんな気持ちになって山に行こうとするの、分かる気もするけど」
初対面の風俗嬢を相手に、情けない己が心情まで吐き出してしまったらしい。
どうも釈然としない。肉体が関係を持つと同時に、心もまた開かれる。そういうこともあるのだろうが、この状況には、どこか違和感もあった。
空調は効いているはずだが、この部屋の湿度は高い。肌がまたじっとり汗ばんでくる。
「やっぱり海かな。そういうときは」
「そうなの?」
「うん、海がいいよ」
濃いアイシャドウに彩られた彼女の瞳が、こちらを見つめている。心の底まで見透かされているような気がしたが、それは別に不快ではなかった。
「……そうだ、海で登山すればいいんだよ。だから逆登山だ」
「逆登山?」
「そうそう、逆登山。天に近いところに登っていくんじゃなくて、逆に深いところまで潜っていくの。ほら、四国のお遍路を逆に回るやつ。『逆打ち』ってあるでしょ。むかし小説にもなったじゃん」
「それの映画版なら、なんとなく覚えてる」
「まあだから、そういうようなものだって。底までいったら、あとは浮かび上がるし。それで蘇る」
彼女がなにを言っているのだか、正直な所よく分からなかった。
しかし気がつくと僕は彼女の運転する車の助手席にいた。高速を飛ばして、海に向かっている。
その日のうちに『逆登山』に行くことになったのだ。
♨︎
「登山道はそこからだよ」
辿り着いたのは日本海か太平洋かも分からない、暗い夜の海だった。
浜辺にいる彼女に見送られて、僕は入水した。
潮が満ちた夜の海面が、月明かりに照らされてヌメヌメ黒くうねった。肩までそこに浸かった身体を波が大きく揺らして、そのまま海中に引きずり込まれそうになる。
「お盆過ぎてるし、クラゲが出るかもしんないよ! 気をつけてね!」
彼女が大きな声で叫んだ。
それが耳に届いた次の瞬間、すっかり全身が海に呑み込まれた。
そして登山道は、たしかにあった。
それは古びた石段の道だった。最初は緩やかな下り坂だが、段々と傾斜がきつくなっているようだった。
彼女に持たされた防水式の懐中電灯で、進行方向を照らしてみると、ライトの光が届かない闇、そのさらに奥まで道は続いていた。
この道の行き着く先、逆登山における頂上、つまり深海の底で、僕は生まれ変われるのだ。
ぼんやり照らされた登山道の周りには、海藻やサンゴが山林のように生い茂っていて、その隙間の暗がりには海生生物の気配も感じられた。
しかし異界からの侵入者を警戒してか、彼らは直接姿を見せない。深海の水は青黒く、ひっそりと冷たい。
一歩一歩、足元をたしかめるように僕は降りていく。
「途中で道が分かれているかもしれない。そのときは、あなたの思う方へ進んで。それが正しいのだと信じて」
彼女の忠告を思い出した。実際に分かれ道に突き当たったのだ。そこには朽ちかけた木の案内板が出ていた。
『右、九頭竜之社』
『左、海底洞穴』
この逆登山の終点は、おそらくは一番深い海底になると思われるから、普通に考えれば左側の『海底洞窟』を目指すのが正しいだろう。
だが反対側の『九頭竜之社』という字面には、なにか惹きつけられるものがあった。
……九頭竜、以前にどこかで憶えがある響きだ。
しかし頭に靄が掛かったような状態になっていて、それに関するはっきりとした記憶を引き出すことができない。
♨︎
懐中電灯はバッテリーが残り少ないのか、いよいよ明るさが心もとない。サンゴや海藻も見なくなり、生物の気配もすっかり消え失せていた。
道を降っていくにつれ、足元の石段はより古びて、いまにも崩れそうな状態になっていった。うっかりすると道を外れてしまいそうになる。だから足元を見て、ただ歩くことに集中していた。それで余計に自分の意識が薄弱になってしまっているのだろう。
ただ寂々とした深海、非現実的なその情景に溶け込んで、自分という存在はどこまでも曖昧になっていく。
「お盆も過ぎているし、クラゲが出るかも」
そう言えば、彼女は最後にそんな忠告をした。
しかしこんな海底深くに潜ってしまえば、お盆過ぎのクラゲなんて関係ないじゃないか。不意に、そんな考えが頭に浮かんだ。
そのタイミングで、視界の片隅を白く半透明なものがよぎった。
……あれは、クラゲだろうか?
宙を飛んでいる、あるいは水中を泳いでいる、というよりは、ただ頼りなくそこを漂っている。そんなふうに見えた。その様子が、いかにもクラゲらしかった。
この逆登山の道ではじめて目にした生物らしきもの、それは深海に漂う青白いクラゲだった。
思わずその姿を追い求めて、石段の道を外れてしまったようだ。気がついたときには完全に道を見失っていた。それでも歩くしかない。どうにかして登山道に戻らなければ、このまま行き倒れになってしまう。懐中電灯のバッテリーも、そのうちに切れてしまうだろう。
あてもなく歩くうちに、仄暗い辺りの景色がグニャグニャしてきた。自分の視界が、不確実で定まらないものに変容していく。どうやら僕はこのまま遭難してしまうようだ。
薄暗い海底の景色が大きく歪んで、天地が反転した。こめかみから金属製のマドラーを突っ込まれてステアされているように渦を巻く視界。
これはいよいよ意識が失われる前触れだ。
もう間もなく視界はブラックアウトする。それで自分は終わるのだろう。
しかし次の瞬間、目の前が逆に真っ白になった。
……頭にクラゲが被さったのだ。さっき見かけたやつに違いない。
咄嗟にそう考えたが、そうではなかった。
それはビニール袋だった。
まるでビニール袋のようなクラゲ、ではなく、スーパーかコンビニでもらえるような普通のビニール袋。
その辺に捨てられ、深海まで漂ってきたらしいビニール袋が、自分の頭にすっぽり被さっているのだった。
なんだこれは。
どうしてこんな深海にビニール袋が。ゴミはゴミ箱にちゃんと……。
そう思っていたら、急に呼吸が不自由になった。入水してからこれまで、酸素には困らなかった。むしろそれがおかしかったのだと、自分の鼻と口にぴったり貼りついて呼吸を妨げるビニールの質感に思い知らされた。
これは駄目だ。まったく息ができない。酸素が足りない。苦しい。
誰か助けて。
このままでは死んでしまう。
♨︎
しかし誰も助けには現れず、あっさりと僕は息絶え、深海のなか溺死体と成り果てた。
すると、それまで抑えられていた浮力がそこに生じた。あるいは急速に腐敗がはじまって、腹にガスが溜まったのかもしれない。
僕の身体は、遙か海面に向かってゆっくりと浮かび上がっていった。
ああ僕は失敗した。
遭難してしまったのだ。きっとあの分かれ道で間違えてしまったのだろう。
そんな考えも、すぐに頭の外に流れ出しては消えていく。
ゆっくりと死滅していく各処の細胞。こびりついた意識の残りかすも次第に虚脱して、細かい泡と一緒になって揺れながら立ち昇っていく。
浮上するにつれて陽の光が差し込んできた。それによって辺りは青く輝いていった。やがて海面に至る。
♨︎
一面に広がる大海原の真ん中に、自分の死体は仰向けになって浮かんでいる。
もう機能していないはずの両眼が太陽に向けられ、ビニール越しであっても陽光が容赦なく眩しい。閉じるべき目蓋は、まだ頭部に絡みついているビニール袋の内側に付着して、こそげ取れている。むき出しになった眼球が熱く灼かれていくのを感じた。
このような肉体的感覚は、きっと腐乱した死骸にこびりつく自分の残留思念によるもの。その残留思念である「僕」とは、つまり魂のようなものだ。
その魂も、いよいよ朽ちていくだけの古い肉体を離れるときがくる。
自分の息の根を止めた白いビニール袋と一緒になって、僕の魂は偏西風に乗って空に舞い上がった。
漂うクラゲのように、というよりは風にあおられたビニール袋のように、この霊魂はその場に止まれない。地縛霊にはなれない。縛りつけるものはなにもない。そして導くものもなにもない。だから浮遊する。
とうとう僕は、行くあてもなく彷徨う、素性の知れぬ浮遊霊となってしまった。
時間と空間の概念も曖昧な領域で、浮遊霊となった自分は、ずっと漂っていたのだろう。
次に気がついたときには、懐かしい日本の、どうやらホテルらしい場所だった。なにかの催しが行われている会場の片隅に自分は立っている。かつて日本人として生きていた自分の意識が、そこで次第に戻ってきたのだ。
会場のあちこちで交わされる人々の会話を耳にすることで、僕は僕としての人格を急速に再形成していった。しかし実のところ、もう耳などない。ただ生前の曖昧なイメージを基にして、僕という霊体の輪郭が模られたに過ぎない。
それでも僕は僕としての連続性を持って思考できるようになったのだから、これはありがたいことには違いない。そして霊体として確立されたことで、僕のなかに存在する、ある種の承認欲求も明確になっていく。
「僕というこの存在を、すこしでも誰かに認識して欲しい」
これは元人間の浮遊霊としては切実な、ともすると本能のような欲求なのだろう。浮遊する霊魂は、自分を認識してくれる存在を求める。そういう存在が、暗がりに浮かび上がった灯火のように感じられるのだ。この僕の場合もそうだった。そもそもが灯火に群れる蛾のように、無意識にここまで引き寄せられてきたのだと思われる。
♨︎
パーティの列席者には、僕を霊視できそうな、いわゆる霊能力者が何人も混じっていた。そういった分野の集まりなのかもしれない。
とりあえず手近にいた中年男性の前に立って、じっと彼を見つめた。ジャラジャラしたパワーストーンのアクセサリーなど、いかにもそれらしい、いかがわしい風体だった。
しばらく視線を送っていると、彼はどうやら僕の存在に気がついたらしい。「おや?」という表情を浮かべて、はっきり僕の方を見返した。
「……いるね。そこに」
「先生、いるって、なにがですか? あ、霊ですか!」
中年男は隣にいる秘書とか助手らしい女性と言葉を交わし、こちらに目を向けている。手に持っていた取り皿の料理(キャビアやアワビなど、値の張りそうなものばかり下品に山盛りにしている)を一気に食べ、空になった皿を秘書に渡した。
「よし視てやろう」
霊能者の男はそう言って、懐から大きい数珠を取り出した。ジャラジャラとそれを弄りながら、怪しげな呪法の言葉を呟く。そして眉間に皺を寄せて、もっともらしく霊視結果を口にした。
「……ううむ、これはクラゲだ。そこらを漂う、クラゲの霊に違いない」
「え、クラゲですか」
「そうだ。どうりで磯臭い感じがしたわけだ」
「なんだ、ただのクラゲですか。じゃあ別に大した霊でもありませんね」
「うむ。クラゲだからな」
その言葉には、大いに気を悪くした。
僕はクラゲではない。れっきとした人間出身の浮遊霊だ。
しかし自分の顔に手をやってみると、あのビニール袋がまだ被さっている。ガサガサと耳元で鳴ってうるさい。
……なるほど、この頭部だけをぼんやり霊視すれば、クラゲのようにも視えるだろう。しかしそんな不確かな能力で「先生」気取りか。よくもそう偉ぶっていられるものだ。このインチキ霊能力者め。……こいつは外れだ。
ビニール袋の内側で、いかにも人間らしく苦虫を噛みつぶした表情を心掛け、僕はその場を離れた。
♨︎
ずっと気になっている少女がいた。はじめから本命はこの娘だった。
しかし、さっきから背後にぴったりくっついているのに、彼女は僕の存在をまるで無視している。本当は気がついているくせに。
「あら、九頭竜のお嬢様。お久しぶりね」
「お久しぶりです。鏡子にございます。おば様もお元気そうで」
「まあまあ、すっかりお綺麗になって。おいくつになられたの?」
「今年で十七になりました」
どうやら九頭竜鏡子という、やたらいかめしい名前のその少女は、親類縁者らしい人々に清楚な笑顔を振りまいて回っている。彼女の清楚な声色、それとは逆にくっきりした眼差しに、ひどく惹かれるものがあった。それと同時に懐かしいような気分にもさせられる。なんとも不思議な気分だった。きっと、それだけ高い霊能力を有しているのだろう。
だから当然、彼女には僕の姿が視えているはずだ。もちろんクラゲの霊などではなく、れっきとした人間の男(で、あったはずの浮遊霊)として。
九頭竜鏡子は会場のトイレに入った。そして洗面台の鏡に向かって化粧を直す。その背後に立って、僕はじっと彼女を見つめている。
いかにも「深窓のお嬢さま」「高嶺の花」という表現がしっくりくるような、華美になり過ぎないが優雅で洗練されたドレス姿。長い黒髪が艶めき、白い肌が際立っている。そして心の奥まで見通してくるような、つよい眼差し……。
九頭竜鏡子のその目は、いまやはっきりと僕を捉えていた。視えていることに間違いはない。そして彼女はいよいよ口を開いた。
「ねえ、後ろのあなた。すこし粘着が過ぎるんじゃないかしら」
……ほら、やっぱり視えていた。僕には分かっていたんだ。
「わたしに憑いてくる気かしら? でも、ここは女性用の御手洗いですのよ。それは分かってらっしゃる?」
浮遊霊になってしまえば、そんなことは関係がない。お化けにはジェンダーもなんにもない。
「そう、物怪の類いなのね。……じゃあ、さしずめ妖怪クラゲ人間といったところかしら?」
いや、ちょっと待った。勘弁してくれ。それは違う。断じてクラゲではない。僕はこう見えても——。
「……ああ、もう分かったから。思念がうるさい。ちょっと待ってよ」
急に砕けた口調になって、彼女は僕を黙らせた。それから両眼を細めて、鏡越しの僕に視線と意識を集中させた。
「はい、視えました。……逆登山ねえ、なるほどそういうこと」
深海での逆登山、その記憶が唐突によみがえった。彼女には、こちらの来歴まですっかり分かってしまうらしい。
九頭竜鏡子、すごい霊能力の持ち主だ。僕は純粋に感心した。
「頭のそれ、ビニール袋なんだ。へんなの」
♨︎
ところで鏡越しに僕を視ている彼女には、やはり懐かしさを感じていた。
しかし彼女は生前の自分と縁があったようなタイプの人間とは思えない。
これはどうしたことだろうか。
「失敗しちゃったのね、あなた」
……失敗。ああ、そうか。僕は失敗してしまったのだった。あの逆登山に。
「でも、それはわたしにも責任がありそうね」
僕の目を真っ直ぐに見透す、彼女の瞳。そこに吸われて、沈み込んでいきそうになる。深く青暗い海の底に、また。
……ああ、この眼だ。そうだったのか。
僕はやっと気がついた。いかにも上流階級めいた雰囲気、年齢相応のあどけなさを差し引いて、純粋に顔のパーツや造作だけを見ていけば……。
「……え、風俗嬢って、この、わたしが?」
九頭竜鏡子は、そこで一瞬、顔をしかめた。
かつて、あるいは目の前の彼女にとっての未来において、九〇分で三万五千円であった九頭竜鏡子。彼女は人間であった僕を逆登山へと導いた、ギャル系の高級風俗嬢だ。おかげで僕はいまやクラゲ状の浮遊霊である。
「まったく、ひどい話ね。……でも、そうか。そういう未来であるとか、パラレルな現実。そんな可能性も否定はできないのか」
しかし現時点においての彼女は、古い家柄のご令嬢らしい。そして超越的な霊能力を有しており、この僕の正体を看破した。
どちらが本当の彼女なのかは分からない。いまが自分にとっての未来なのか、過去なのかも分からない。
どちらの姿も、ただのコスプレに過ぎないのかもしれない。未来であろうが過去であろうが同じことかもしれない。
「まあ別に、いまのわたしも、そういうことが嫌いではないし。その職業を選ぶことに偏見もないかな」
なんだって。
……そういうことが、嫌いではない?
その発言に僕は引っかかった。
いかにも納得したように発せられた大人びた少女の言葉に、僕の心臓は(物質的にはもう存在しないのだが)微かに高鳴る。
そんな僕を視て、鏡子はいたずらっぽい表情を浮かべる。
「……ねえ、わたしを選んで指名してくれたんだよね?」
……まだ十七だというのに。いい年齢をした男(しかも浮遊霊)を血迷わせるような、なんとも蠱惑的な微笑を浮かべる鏡子。指名料はプラス二千円だった。あのときの自分は、いいチョイスをしたなと思った。
「こんばんわ。鏡子です♡ ご指名、ありがとうございます。……なんてね」
さらにからかうように続ける鏡子。恐ろしいほどに可愛い。背筋がゾクゾクした。すっかりギャルスタイルに染まった、あの店の彼女だって捨てがたい。しかしいま目の前にいる、小悪魔的な令嬢の魅力には抗いがたいものを感じた。
「でもそういう所って、具体的にどんなことするのかな……?」
あの駅の裏通りの風俗店で繰り広げられた、九〇分間のめくるめく痴態がありありと思い浮かんでくる。
思い返せば、あれは現世を超えた快楽、まるで竜宮城にいるような体験であった。あんなことが、本当にあったのだろうか。いまからすると、その時間と空間は、非常に現実感に乏しい。
……いや、いま目の前のこの現実だって、どう考えても現実感を伴っていないじゃないか。
なんだ、どちらにしろ現実なんてなかったのか。
つまりは、すっかり鏡子に骨抜きにされてしまったということだ。
頭にビニール袋を被っていても、いなくても。人間としての体裁を保っていても、いなくとも。いずれにしろフニャフニャしたゼラチン質の心を持て余し、背骨をすっぽり抜かれた、クラゲのようにだらしない僕がそこに漂うだけ。
「……まあ、エッチなお店のことは、一先ず置いといて」と鏡子は言ったが、まだ置かなくてもいい。もうちょっとこの話題を引っ張りたい。しかし彼女は次の話を切り出した。
「あの逆登山、もう一回、やり直してみる? そういう選択肢だって、まだ残されてるんだよ。そこに戻すことも、わたしならできると思う」
もう一回、あの逆登山を……。
しばらく考えてはみたが、どうも気が進まない。首尾よくそれを成功させて人間にまた戻ったところで、それからの僕になにがあるのだろう。どうせクラゲ状の浮遊霊じみた自分であることに変わりはないんじゃないか。
それにもっとひどい事態に陥ることだって考えられる。
もっとひどい事態……それは例えば、ビニール袋ではなく頭にパンティーとかブラジャーが被さって脱げなくなるとか。ところで、その下着は、九頭竜鏡子のものだろうか。使用済みあるいは使用直後とかだったりするのだろうか。そういえば、ブルセラなんて文化もむかしあったな。あれはまだ存続しているのだろうか。
ムクムクと行き場のない妄念、欲望が泡のようにわいてくる。しかし僕はいまや浮遊霊で物質的な肉体を持たない。こうした衝動は、どうやって解消したらいいのだろう。
「ふうん。君は、別に人間に戻りたいわけじゃないんだね」
そう思う。いっそ九頭竜鏡子の式神にでも雇ってもらった方がワークライフバランスとかクオリティーオブライフ的によさそうな気がしてきた。
「じゃあ、これからは、わたしが可愛がってあげるね♡」
限りなく性感に近い電気信号が、僕に走った。……これは、たまらない。骨抜きクラゲ男の一丁上がりだ。もう人間の社会にも、海にも還りたくない。いつまでも彼女の側でふやけていたい。
「とりあえず今度は、普通の登山に行ってきたら?」
今度は、本当の山に行かされるのか。まあどこでもいい。クラゲ男として、僕は遍歴を重ねていく。海には海のクラゲがいて、山には山のクラゲもきっといる。どこにでも、ユラユラと漂っていけばいい。そして鏡子のもとに戻ってこよう。
「じつは、君にぴったりの山があるんだ」
どんな山のことを、彼女は言っているのだろう。遠い国にある峻厳な頂、万年雪に覆われた霊山。あるいはいまにも噴火しそうな灼熱の活火山だろうか。九頭竜鏡子が提案してくるそれは、どうしたって普通の登山にはならないだろう。そんなことは分かっている。
「そこで霊気をたっぷり吸い込んで、つよいクラゲになってきてよ。わたしのために」
仕方がない。僕はそうやって生きて行くしかないのだから。いや、もういまは生きてもいない浮遊霊か。まいったね。人間であったときの癖で頭をポリポリ掻こうとすると、ビニール袋がガサガサと耳元でうるさい。自分をクラゲのように見せているこの被り物を、いっそ取ってしまおうかと思う。
「あ、そのビニールは取らなくていいよ。海で溺れて、腐乱してるんでしょ? なんかグロそうだし」
彼女がそう言って止めた。
僕はこうして浮遊霊から式神として九頭竜鏡子に雇用された。そのうちにまた竜宮城に辿り着くこともあるだろうか。ただそれを信じて、残業や休日出勤も厭わず、粉骨砕身(骨はもうないが)の気概で働くつもりである。
了
ムラサキさんの短編小説『半月とクラゲ男』に触発されて書き始めた作品です。そしてアンソロジー企画「ネムキリスペクトマガジン」の9月のテーマ「クラゲ」にも参加させてもらおうと思っていたのですが、書いているうちにどんどん話が長くなり、修正などを重ねるうちにゲシュタルトが崩壊していつまでも未完成、結局は8月末に間に合わず、未発表となりました。
自分の場合、まとまりがつかなくなる、というか自分でわけが分からなくなって投げ出すことが多いです。構想段階でも、書き出してからも。気が散りやすいとか、単純に集中力の問題という気もしますが。
今回は「没ネタ祭り」ということで、改めて見直して、色々ばっさりカットしたりで一応は完成させました。それでも長いですが……。ごく直近の大きな未完成、未発表だったので、アップしてとりあえずはスッキリしました。最後まで読んで下さって、ありがとうございます。