目撃、万引きGメン犯人確保 【後編】
↑の続き。
スーパーの入り口より、バックヤードの方がそこからは近い。
なるべく早くスーパーの関係者を連れてこよう、そして早く妻と共にこんな場面から解放されなくては——私はそう思っていた。
「すいません、あっちの方で、たぶん万引きの現場を捕まえてるんだと思うんですけど、スーパーの人呼んでくれって。だから、すぐに来てください」
ちょうど野菜の在庫管理などしていたらしい従業員らしきオジサンに、矢継ぎ早に伝えた。久し振りに走って息も切れていた。焦っていたので自分でもなにを言っているのかよく分からなかったが、主旨は伝わったらしい。しかしオッサンの方も動揺したのか、
「え、あ、あそう。いや、おれ? おれがいけばいいのかな。いやあ、うーん、ちょっと待って。もっと人を、応援呼んでくる」
モゴモゴそのように言ったきり、建物の奥に引っ込んでしまった。
そのまましばらく待ったが、オッサンも応援部隊も現れる様子がない。とにかく私は残してきた妻が心配だった。
「向こうの路地の方です。そっち戻って待ってますよ!」と奥の方へ声を掛けて、来た道をまた走って戻る。
不安が胸にあふれた。あの若い男は、本当に万引きGメンなのだろうか。もしそれがまったくの嘘であったら。あの万引き犯人扱いされている女性が、私が妄想した通りの不幸な被害者であったのなら。
もしくは可能性として、あのGメンと女性がグルということも考えられる。なんのために? ……私を、そして妻を罠に嵌めるためだ。状況転じて妻のえげつない動画が撮影される恐れもある。まんびき。それはいけない。
急げ、とにかく急がなくてはならない。私は全力疾走した。
ところが現場に戻った私の目に飛び込んできたのは、これまでの不安や妄想を裏切るような驚くべき光景だった……!
いかがわしい路地のその一角は、普段からすすけたような色合いが目立っていた。だがいまは、すすけているどころではない。昼間はずっと閉じられたままのシャッターの前で倒れている男の身体、それを中心にして辺り一面が黒く焼け焦げていた。倒れている男、といま書いた。しかしそれが男だったということが分かるのは、さっき彼をこの目で見ていたからだ。それは人の形をかろうじてかたどってはいたが、完全に炭化していた。考えられないような高温の炎かレーザー兵器のようなものが、万引きGメンを一瞬で焼き尽くしたらしい。消し炭同然になったGメンを横目に捉えつつ、私は妻の姿を探す。
次に視界に入ってきたのは、さっきGメンに捕まっていた女性の姿だ。ただしプロレスラー並に巨大化した土気色の身体で、背骨は大きく湾曲していた。禍々しい宝石のように無機質な紅い瞳がぎょろぎょろ動いている。切り裂いたように耳元まで開いた口からは黄色い牙がのぞく。肩のところで千切れたGメンの腕が、それでも彼女を掴んだまま、ぷらぷら揺れている。相変わらず「ナンデーナンデーヨ」と呟き続ける彼女だったが、いまや人外の獣と化していた。……なんということだろう。私は驚嘆し、その異様な状況に我が目を疑った……のだが、それはいい。もとから関わり合いになりたくなかったことだ。妻は、私の妻はどこにいった。私が心配なのは彼女だけだった。
そしてようやく妻の姿を見つけた。彼女は妖鬼「ナンデーヨ」から距離を置いたところに立っていた。スプリングコートが少し焼け焦げているように見えた。攻撃のあおりを食らったのかもしれない。あのコートは先日おろしたばかりのものだ。「これはまずい」と私は思った。こうなってしまうと私の妻を止められる人間はいない。
妻は不吉な無表情さで「Das Gemeine……aufheben……」と呟いていた。それは意味のないドイツ語の羅列のようだったが、彼女にとってはセルフリミッターを解放する儀式の過程であり、残虐の神に奉仕を捧げる祝詞でもあった。彼女の全身のチャクラが異常稼働し、そこから供給されたエネルギーが右掌に急激に集中、いまや一般人の目にも可視化されるほどに強大なオーラがそこから放たれていた。機械仕掛けのような妻の視線と青白く輝く右掌、それが戦き喚く妖鬼へと真っ直ぐ向けられた。……かつて神社本庁の傀儡となり多くの天魔を調伏、またドイツ第三帝国に貸し出され極地戦闘兵器として猛威を振るった妻の呪われし力が、このような場面でいま再び解放されようとは……!
——というようなことは、もちろんなかった。
Gメンはチャイナ系女性を引き続き取り押さえていて、彼女は「なんでよー、えー、なんでーよ」と喚き続けている。私の妻は秘められたパワーを暴走させることもなく、ただその様子を見守っていた。
「スーパーの人は?」
「呼んだけどすぐ来ないから、おれだけ戻った」
「なんだ。警察もまだ」
「交番そこだろ。なにやってんだ」
まだ続きそうな面倒な状況への苛立ちを、公僕への八つ当たりに変換して私は言った。それにしても遅い。すぐに来て欲しい。Gメンもずっと女性を押さえているのでバテはじめているようだった。
「押さえるの手伝ったら」
「え、そんなの無理だろ」
もし押さえる側が女性、万引き犯らしき人物が男という、いまと状況が逆であったら、そこに手を貸すことへの抵抗は少し薄れるかもしれない。でもそれにしたって気は進まない。いま目の前では、若い男が妙齢の女性をつかんで押さえつけているのだ。ここで私が彼に手を貸すことは正義と呼べるのか。むしろ不当な暴力の様相を帯びてしまいそうだ。
そもそも正義とはなんなのだ。以前よく考えていたテーマがまた私の脳をよぎる。つい先日もこんなものをnoteに投稿したばかりだった。
思い出すことによって、その内容に心が引っ張られていった。
「なんでー、なんでーよ」と繰り返される片言に諸行無常の響きを聞いたような気分になってくる。どうやら彼女が万引きをしたことに間違いはなさそうなのだが、彼女の罪を咎める権利がこの場にいる私たちの誰にあるだろう。ないような気がしてくる。「罪のないものだけが石を投げよ」という聖書の言葉まで思い出された。「なんでー、なんでーよ」喚いている彼女と一瞬目が合う。必死なようでいて、どこか諦めの色が濃く差している目の奥、その鈍い光。そこを起点に彼女の意識、現在に至るまでの記憶が、私に流入してきた……ような気がしてきたのは、やっぱり気のせいだろうが。
……福建省とか雲南省とか、山水画のような中国の原風景……密入国船の船倉の闇に光る幾つもの目……降り立った日本の薄っぺらいテクスチャみたいな裕福さ……ここからはフラッシュバック、下働きの中華街の店の旦那の肥満した身体、去って行く若い男の背中、錆びた青竜刀、預かってくれと言われた紙袋の無造作な重み、かつて捨てた祖国からやってくる新興成金たちの表情……etc
まったくもって偏見とステレオタイプに満ちた視点で、彼女の人生をただ一方的に瞬間妄想する私だった。まあ、とにもかくにもGメンと一緒に彼女を押さえつけるなんて私にはできない。
人通りが多い場所ではなかったが、さすがに何人かは通りかかる。みな遠巻きに我々を眺め、すぐに立ち去っていく。それはそうだろう。できれば私も関わり合いになりたくない。とにかく早くスーパー関係者か警察が来てくれることを願った。
「あ、お巡りさん、向こうに行っちゃった」
路地を抜けた先を、彼女の言う通り警官が3名ほど通り過ぎていった。私と妻は走って警官たちを呼び戻した。
そこからの展開は早かった。警官と一緒に現場に戻るのとほぼ同じタイミングでスーパーからもようやく人が来る。彼らは事態に戸惑いながらもGメンから事情説明を受け、件の女性をスーパーにある事務所に連行していった。
その場に残った警官が「一応なにかあったら……」ということで連絡先など聞いてくる。その際「おそらく普通の万引き。まあGメンも……」とボソボソ言っていた。どうやら万引きGメンという職業は実在して、警察としても周知しているらしい。
結局、トータルとして40分くらいそこにいたことになる。ようやく解放されて、私は妻との散歩を再開した。
とくに目的地もない散歩だ。歩きながら、自然とさっきまでの騒動についての話をしていた。
「彼女の不幸に、おれたちは加担してしまった」
「いや、不幸っていうか、あれは必然的な罰則でしょ」
無責任に感傷的な私の言葉に、妻が正論を返す。それはそうだ。分かってはいる。ただ私は「正義」というものを疑ってみたくなる。そういうポーズをすぐにとろうとする。むかしから変わらない常態化したひねくれ癖だ。
正義というものは、いつだって曖昧で流動的な概念に過ぎない。だからこそ存在し続ける。それはまあいい。そういうものだと納得している。
問題は「正義の味方」という存在だ。「正義」という概念に自らの価値観を担保してもらい、その大義名分と正しさを振りかざして人を罰する。
と、しつこいようだが以前書いたような怪人的感覚、それが自分にはまだあるということだろう。
「ありがとうございました。お陰で助かりました!」
去り際、あの青年は実に爽やかな笑顔で我々に礼を言った。
万引きGメンなんて職業が、現実に存在していた。そのことがまず驚きだった。それにしても——Gメンの、ひと仕事終えたような清々しい表情。そして警官とスーパー店員に囲まれてからも「なんでよー、なんでーよ」と喚めき続けていた中年女性。それが対比して想起された。あれから彼女はどこに連れていかれて、どうなるのだろうか。
そんなことを私は考えはじめ、その思考がまとまらないまま止まらなくなっていって……。
そういうわけで、数日後。私は件の駅前スーパーに単身入店。目的は買い物ではない。万引きである。
店内を歩きながら手頃なターゲットを物色する。私の目は獲物を定める蛇のように焦点を動かし、コートのポケットに突っ込んだ手には鋭い鷲の鉤爪のイメージを宿らせる。怪しまれない範囲で店内を歩いて周り、諸々の位置関係を把握した。そして見つけた。
……あいつだ。あの万引きGメンの姿が、そこにあった。
彼は買い物客の振りをしてその業務に従事している。彼の目は油断なく光り、商品をポケットや手荷物に忍び込ませ会計せずに退店した者、現行犯が確定された犯罪者を追い求めている。まず発見し、次に泳がせ、そして確保する。それが彼の仕事だ。私はそれを試してみようと思った。捕まえる彼、彼に捕まった彼女。その現象を、この身を持って追体験する。これはひとつのengagement、いびつな私にとっての社会テーマなのだ。だが彼女のように私があっさりGメンに捕まってしまうのか、そこは真剣勝負だ。……そんな私と彼との対峙の瞬間がやってきた。
彼が私の視線に気がついた。見覚えがある顔だと思ったのか、一瞬その表情に戸惑いのようなものが浮かぶ。そこで私は軽く会釈してみせる。彼の脳裏で先日の記憶と私の顔が紐付けられたようで、最初の戸惑いが微妙な笑顔に変化しつつある、その瞬間。——ポケットから素早く、しかしあくまで自然な動作で抜き出された私の右手が、陳列棚にあったキャラメルを一箱、しっかりと掴んだ。身体の蔭になって彼からは完全な死角になっている。そして獲物を捕らえた右手はくるりと返されそのままポケットに帰還する。Gメンはなにも気がつかず、笑顔で私に会釈を返す。どうやら勝負はこのまま私の勝ちに……
「ちょっと、なにしてるの!」
強く咎める女の声が耳元でした。そして振り返る間もなく、後ろから乱暴に右腕をつかまれた。まさか伏兵のGウーマンが……?
「……なにしてるの? さっきから黙って」
少し後ろを歩いていた妻に、右手を引っ張られていた。
それで私は現実に引き戻された。散歩の途中、さっきのGメンのことですっかり頭がいっぱいになっていた。
「どうせ、さっきのことでしょう」
「いや、まあ……」
「なにが正しいとか、そんなのは置いといて」
「うん……」
「等価交換ね。品物の対価を払わなかったから、その対価としてあの人は警察に捕まった。それだけじゃん」
「でも、それは」
「国とか正義とか、個人の事情とか、そういうの関係なく」
「いや」
「考えるまでもなく、万引きはよくないね」
「……まあ」
「返事は」
「え」
「返事しな。万引きは、よくないね?」
「……はい。万引きは、よくないです」
「よし。じゃあ行こう」
私は平凡な恐妻家。日の光はそろそろ暖かい春のそれへと変わりつつある休日の午後。
万引きは、よくない。
了