『花束みたいな恋をした』の麦くんと絹ちゃんを許したい
映画を見て許せなかった人向けの感想です
2人のことを許したい
俺はあえて麦くんと絹ちゃんを許したい。この映画を見たサブカル系の人間は必ずと言っていいほどこの映画に悪態をつく。なぜならムカつくからだ。コンテンツの表面だけを追っているように見えて、それをコミュニケーションとセックスの道具にだけ使っているように見えて、深く考えずその場の流れで生きているように見える2人がムカつくからだ。
でもそんな2人を許したい。許し。それは人に残された一縷の望みだ。叩くことはいくらでもできる。押井守で意気投合しているのに、押井作品についてはちっとも語らない2人のことを叩くことはいくらでもできる。2人で映画『イノセンス』や『天使のたまご』や『ビューティフル・ドリーマー』を視聴するシーンでもあればヲタク達はたちまち2人のことを応援しただろう。麦くんが「押井守ってのは現実と仮想の区別が付かなくなる作品ばかりでさぁ……」みたいに講釈を垂れ流し始めれば、サブカル視聴者は歓喜して2人のことを応援しただろう。
でもそうはならなかった。2人は読んだことのある小説家の名前を羅列だけして、飼い猫にはバロンと名付け、つまらないガスタンクの編集ムービーに文句や改善点1つ挙げないままダラダラと生活していく。
猫にバロンなんて名前を付ける人間を信用できるだろうか? ジジでは駄目なのか? バロンのチョイスからして俺は信用できない。猫の名前くらい自分で考えろ。猫を飼うのはお前らが始めた物語だろうが。
文句を言いたくなるシーンを挙げればキリが無い。見ている最中はずっと発狂していた。実写版『魔女の宅急便』を見ている人間を馬鹿にするんじゃない。見てみたら案外面白いかもしれないだろうが。『夜のピクニック』を使って圧迫面接への溜飲を下げるんじゃない。ネットに悪評を書きしかるべき場所に通報しろ。押井守を知らない人間を見下すんじゃない。白石晃士監督を街で見かけたらお前は気付けるのか?
いや、でもちょっと待てよ。
俺自身ももし押井守を知らない人間と出会ったら、その相手を心の奥底で見下してしまうかもしれない。少なくとも一瞬で「自分とは仲良くなれないだろうな」とレッテルを貼ってしまうかもしれない。無意識のうちに相手と自分の間にラインを引いてしまうかもしれない。そこが恐ろしい。
2人のことは許した方が良い。そうしないと自分の首を絞めることになるからだ。2人はコンテンツの表面だけを追っているように見える。でも、俺自身はそうではないと言い切れるだろうか? 2人はコンテンツをコミュニケーションの道具に使っているだけに見える。でも、俺自身は道具として使っていない、はたまた道具として使う以外の何かを見出していると言い切れるだろうか?
結局のところ、いくら2人のサブカルコンテンツに対する態度を批判したところで、全ての言葉は自分に返ってくる。コンテンツなんてものは楽しめればそれでいい。コミュニケーションやセックスの道具として使えて、それが人生を豊かにしてくれるならそれで十分なのかもしれない。
押井守の作品について語らずとも、押井守が男と女の出会うきっかけになるのであればそれで十分なのかもしれない。その結果として結婚し、子が生まれ、家族が形成されたとしたら、それ以上のことがあるだろうか。
麦くんが描いている絵についても同様だ。第三者視点で見ていると、もっと絵を描き続けられる生活スタイルはいくらでもあるだろうに、とモヤモヤしてしまう。一言物申したくなってしまう。けれども、一時でも絵が描けて、一度は辞めてしまっても数年後、少し年をとった時に昔描いていた絵のことを思い出して懐かしくなったりできれば、それで十分なのかもしれない。
社会が悪い
映画の中盤あたりで麦くんは就職をする。これは彼女の両親にそそのかされたからだ。「社会なんて一度浸かってしまえばなんてこともないわよ。風呂と同じよ」と。恐ろしいことに人間というのはどんな環境にも慣れてしまう。麦くんも例に漏れず、おそらくはブラックな職場であるにも関わらず、仕事に対して段々と意義を見出し始める。
でも待ってほしい。これはブラックな職場に耐える為の自己防衛に過ぎない。麦くんは労働をするにつれ、昔は好きだったコンテンツに対して興味を持てなくなっていく。漫画の続刊を読めなくなったり、巷で神ゲーと称されているゼル伝の新作をプレイする気になれなくなったり、あれだけ力を入れていた絵に対してもやる気を失っていく。その代わり、本屋に行けば自己啓発書コーナーに一目散だ。
この変化は麦くんが望んだものだったのか? 否。麦くんだって無職だったらゼル伝ブレワイをラストまでプレイして長文感想をnoteに上げていたかもしれないし、なんなら絵のスキルを利用してTwitterに感想マンガをアップしていたかもしれない。ゴールデンカムイの最新話のためにヤングジャンプを毎週購読していたかもしれないし、月間アフタヌーンは本棚を順調に専有していったかもしれない。
俺は麦くんを救いたい。そうまでして働かなくて良くない? と言い聞かせてやりたい。絹ちゃんはどちらかといえばそういうスタンスだ。最初は生活のためと事務の仕事をしていたが、すぐに自分が楽しめるような職場に転職した。給料はそこまでではないかもしれない。でも自分の趣味を楽しめる程度の余裕を就職後も維持していた。
どうして絹ちゃんのようにいかなかったのか? と問いただしたい。すべてを楽しむ余裕を失った社会人麦くんを見ていると、かつて押井守を知らない社会人カップルを小馬鹿にしていた頃の大学生麦くんを思い出して悲しくなってくる。あの麦くんについて物申したいことは色々あるけれども、それでもあの頃の麦くんの方が格段に輝いていた。押井守を知らない人類をもう一度小馬鹿にしてくれ。
だが悲しいかな。ブラック企業の99%は押井守を知らない人間で構成されている(偏見)。環境の影響は無視できない。麦くんはブラック労働によって段々と荒んでいってしまう。麦くんがかつての麦くんを取り戻すためには、絹ちゃんのように色々と模索して「遊んでいるように見える」会社に転職するしかないのだ。もしくは無職になって自分自身を考え直す時間を取るしかないのだ。
麦くんがパズドラしかプレイできなくなってしまった姿は、まさに現代のホラーだった。日常のすぐそばにあるホラーだ。自分もいつ何時あの状態になってもおかしくない。『それでも僕はやっていない』で描かれるホラーはすぐそばにある恐怖であっても、それは外部からやってくるものだった。事故と同じで遭遇してしまったらどうしようもない。けれども、麦くんが見せたホラーは自分自身の心持ちでどうにでもなるものだ。だからこそ恐ろしい。
2人が別れたあと、数年後の麦くんには余裕があるように見えた。今の仕事に慣れたのか、彼女と別れたことで憑き物が落ちたのか、はたまた転職して気分を変えたのかは分からない。けれども、1つの音楽を2人で分けて聴くカップルに対して、受け売りであっても悪態をつくだけの元気は残っていた。モノローグにおいても、コンテンツに対する興味を取り戻しているように見えた。そんな麦くんを見て安堵した。それで良い。彼女の両親(社会とも言い換えられる)に良いところを見せようとするな。無理に労働をするな。宝石の国を読め。藤本タツキを持ち上げておけ。
コンテンツは楽しめればそれで良い
どんなスタイルであっても、コンテンツは楽しめればそれで良いんだなと思えた。ゆるくても楽しめればそれで良い。コミュニケーションとセックスの道具に使えるなら楽しいし、それで良いんだ。絵だってそこまで熱意を持ってやってなくても、日常を彩ってくれるならそれで良いんだ。休日にミイラ展に行ったなら、一日をインターネットで無為に過ごした気分にならないからそれで十分なんだ。
サブカルにうるさいヲタクは初期の2人のシーンを見て憤慨するだろう。なんて浅いんだと。でも変貌してしまった麦くんや、なんとなくスレてしまった絹ちゃんや、なんとなく社会でうまくやっている別れた後の2人を見た後に最初のシーンを思い出すと、なんだかとても悲しくて懐かしい気持ちになってしまう。
あの頃は何も知らなかったけど楽しかったんだなぁ、という気持ち。ラストシーンでGoogleMapを見て喜ぶシーンは最高だ。あの瞬間にサブカル大学生の麦くんと、社会の洗礼を受けた後の社会人麦くんがリンクする。そして、あの瞬間だけは麦くんはあの頃から何も変わっていないのだ。
生きていると色々なことがある。ブラック労働させられたり嫌な事件が起こったり戦争が起こったりと、実に様々だ。それでもGoogleMapを見て喜んでしまうような気持ちを失わないでいたい。どんなに浅くても良い。この映画はサブカルを楽しむことへの讃歌であると自分は受け取った。
彼氏や彼女と分かりあえずに別れたとしても、その後の人生は各々で楽しんでいって欲しい。押井守の映画を再視聴して、「実は思ってたほど面白くないんじゃないか?」という気持ちになって欲しい。麦くんと絹ちゃんの今後の生活を応援している。