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境界/結界

今もあの裏庭と井戸を夢に見る。


引っ越しと転校を教えられたのは、幼稚園を卒園した後の、春のあたたかな日だった。
大体子どもには、ギリギリになってから知らされるのだ。

ただでさえ来月から小学生になるだけでも不安だというのに、知らない場所で、知らない人のいる、知らない学校に通う気持ちは、きっと大人にはわからない。

ちょっと泣いたけど、なんて言えば伝わるか、それすらわからないから、何も言わない。

慌ただしい両親の邪魔をしない一番の方法は、一人で『楽しく』新しい家の探索をすることだ。
大丈夫、心得てるから楽しく遊ぶよ。

のっぺりと横たわった平屋建ての社宅は、押し入れの奥に隠し部屋があったり、天井板が外せる仕組みになっていたり、仕掛けと発見が山盛りで、私はすぐに忍者屋敷のようなこの家が気に入った。

私に宛てがわれた一人部屋は、玄関から一番奥の突き当りの部屋だった。
部屋の全面窓は何故か表ではなく、裏庭側についていて、窓から井戸が見えた。

井戸を見たのは、それが初めてだった。

昼間の井戸は、ぼんやりと日向ぼっこをしている風情で、近付いて中を覗き込むと、下の方にはコインのように光る水面が見えた。

ひんやりした空気が顔に当たって気持ち良くて、覗き込むのは日課になった。

たまにヤモリが這い上がってきて、飛び退いて尻餅を着いた先にはオオイヌノフグリが青く咲いていて、私はその花が大好きになった。
転んだお陰で見つけることが出来たから。

夕方5時になると、雨戸を閉めて回るのが私の仕事になった。全ての部屋を外と内に隔てて回るこの仕事は、力の無い子どもには時間のかかる作業だったが、役に立つ事がひとつでもあるのは嬉しかった。

最後に自分の部屋の雨戸を閉める。
昼間あんなに親しく感じた井戸は、夕方だとまるで見え方が違う。

段々と青ざめる夕暮れの逆光の中で、空に向かい口を開けている井戸のシルエットは、まるでオオカミウオみたいに見えた。

見ないように見ないように…と思えば思う程見てしまうし気になる。

当時、雨戸の開け閉めをする際に、自分の中だけの小さなルールがあった。

1.  息を止める
2.  必要最低限の動きで素早く閉める。

とくに2は難しかった。
雨戸は大抵ガタガタと引っかかって、気持ちが焦れば焦る程押しても引いても言う事を聞かない。

「早くしないと」という焦燥感と、
「入ってくる前に閉じないといけない」という謎の使命感で、息を止めて急いで閉めた。

夜がくると「あともう少しで小学生なんだから」という理由で、一人で寝るようになった。

どうしても暗い部屋の何かが怖くて、布団の周り四方ぐるりとぬいぐるみを並べて寝るようになった。「この中には入れない」とおまじないを唱えてから眠ったが、朝になると大抵、結界は崩壊して、ぬいぐるみたちは、あちこちに転がっていた。

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あの頃、何が入ってくると思っていたんだろう?

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裏庭には、たまに知らない人がいた。

派手な服装をした髪の長い女の人や
半袖短パンの男の子たち
作業着の男の人
着物姿の細いおばあさん

彼らが何をしに来ているのかはわからない。
謎の縄張り意識で「私の場所に入らないで」と思いながら窓の内側、見つからないようにタンスの影に隠れて見ていた。

彼らは一人の時もあれば数人の時もあり、いつも何か、井戸の周りで下を向いて探し物をしているようだった。たまに、話し声も聞こえた。


後年、東京へまた戻って来た。
平屋建ての広くて長い家ではなくて、エレベーターで高い場所に登った先に、新しい家はあった。

なんとなく、聞けなくて。
だいぶ大人になってから両親に聞いた。

「そういえば、前の家に井戸があったでしょう?なんで井戸なんてあったんだろう?何か聞いてる?」

その答えは、予想もしていないものだった。

「え?井戸なんてなかったわよ?」

そんな訳ない。
いくら話しても、両親も兄弟もみんな「井戸なんて知らない」と言う。

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子どもの時の自分が見ていた世界は、
私にしか見えていなかったんだろうか。

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あんなにも覗き込んだ井戸の水面の静けさも、
春にオオイヌノフグリが青く群生したことも、
井戸の周りで咲いていたドクダミの白い花も、
掘り返したら瀬戸物が沢山発掘された事も、
あの時に見た、見知らぬ人たちの姿も。

/何処までが現実で/何処からが幻想なのか/
記憶の境界線がわからない。


未だにあの裏庭と井戸の夢を見る。

夢の中で私は、雨戸をカラリと開ける。
重さはなく、とても軽やかだ。
窓を開けて空を見上げると以前より近い月が風に吹かれて浮かんでいる。
視線を下ろすとあるはずの無い井戸が見え、あの裏庭に繋がっている。

不思議と怖さはなくて。

入ってくるものを拒絶していた過去も、
見えていたものも、見えなかったものも、
開け放った窓から入る月の光で、
境界も結界も静かに消えていって。

井戸のある夜の裏庭に、私は降り立つのだった。





日常の延長に少しフェイクが混じる、そんな話を書いていきます。作品で返せるように励みます。