墨の香り
墨の香りを心地よく感じるようになったのはいつからだろうか。
思い起こせば墨をすった記憶は小学校の授業で止まっている。私は全く書道向きではなかった。道具は重いし、墨が服にはねると絶対にとれないし、筆の運びやお手本通りに書くのも苦手だったし…
この頃から墨の香りがどんなものかは把握していたはずだが、別段いい匂いとも嫌な匂いとも思っていなかった。一方、線香、バラやラベンダーのポプリの香りはなどはきつすぎて苦手だった。
大学生の頃、コム・デ・ギャルソンのお店で「2」という香水を試し、こんなにいい香りがあるのかと驚いた。
当時店員から「『2』 は相反するもの、両極にあるものに由来している。香りは『白い』花の匂いで始まって『黒い』墨の匂いで終わる」という説明を受け、「ああ、墨の匂いっていい香りで安らぐものな」と腑に落ちたのをよく覚えている。
おそらくこの時が、自分にとって墨はいい香りなんだと意識した最初の瞬間だった。
墨はお香やポプリのように強烈な印象を残す代わりに、もっと控えめに、だけど確実に意識の奥底にすっと入り込み、本人も知らず知らずのうちに安らぎを覚えていた。それがある時、何かの拍子に「心地よいもの」として認識されるプロセスは何とも不思議である。そんなことを考えていると、ディディエの話を思い出した。
グラース在住の調香師で市内に自身のブティックを構えるディディエは、店を訪れた客に「どこの出身ですか」と必ず尋ねる。これは会話を始める糸口でもあるが、その人の好みを推測して香りを提案するためでもある。彼の考えでは、香りの好みというのは、その国の食文化と深く結びついている。なるほど、この考えを食から生活に広げて考えてみると、知らず知らずのうちに記憶に蓄積されていた墨の香りに親しみを覚えることにも肯ける。
ところでなぜくどくどとこんなことを書いたのかというと、5月にグラースへ行った時、調香師たちへのお土産に墨を持って行ったからである。
前回2023年9月のフランス取材の際は、話のたねに線香を持っていった。普段のお供えに用いる一箱2000円くらいの「水仙の香り」がする線香をかいだ調香師たちが、口を揃えて「獣の匂いがする」と言ったことは以前書いた。→花の香りは獣の香り?
フランスで和の素材はここ十年ほどで急速にポピュラーになっている印象で、食材として人気の高い柚子や抹茶はそのままの固有名詞で通じるし、ヒノキなどと共に香水の香料としても用いられる。そんな状況を踏まえ、まだあまり知られていないものを…と考えて、墨を持参したのだった。
墨は赤松や菜種油などを燃やして得られる煤に、動物性ゼラチンである膠(にかわ)、膠の悪臭を取り除く香料を混ぜ合わせて作られる。主な香料である竜脳(ボルネオール)は熱帯アジアに分布するリュウノウジュ から得られる結晶で、一般的には防虫剤などに用いられる樟脳(カンファー)に似た清涼感を持つ香りと言われている。以前京都のとあるお店で実物をかぐ機会があったが、樟脳よりもまろやかで心地よい甘さがあった。その日は湿度が高くだるさを感じていたのだが、香りが鼻を通った瞬間、頭がすっきりして体が軽くなったことをよく覚えている。
そんな墨をフランス人はどんな風に感じるだろうと、わくわくしながら調香師のローランスのアトリエに持っていった。アトリエには遊びに来ていたご近所さんら複数の人がいて、みな興味しんしん。
ローランスの第一声は「Bien parfumé (よく調香されている)」。ほかの人たちも「Chaud (ホット、熱感がある)」「Terre (大地のような、アーシー)」など、はじめての匂いへの印象を次々と口にする。
中には「昔の薬のような匂いがする」という人もいた。ヨーロッパでは伝統的に竜脳を頭痛や歯痛の薬として用いていたようだ。かいだ人に本能的な心地よさを与える素材だが、今日のヨーロッパでは規制の対象になっており、ローランスは「何千人に一人アレルギーがでるかでないかのためだけに」と怒りをあらわにしていた。
今回も墨とともに線香をいくつか持っていった。多くの人が花の香りなど香料で香りづけされた現代的なものより、白檀、沈香、伽羅などの伝統的な香りに惹かれているようだった。
インテリアやデイリーユースに用いられる様々な香りの線香は海外の香水や香料から影響を受けているし、日本の香りも調香師たちのパレット(香りのバリエーションや引き出し)を豊かにしている。
それぞれの国や文化に固有の香りがあると同時に、お互い刺激しあって色々な香りが生まれている。次はどんな香りをもっていこうかと、記憶の中の香りを色々辿ってみる。
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