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むらさきのスカートの女

ストーリー

「わたし」は「むらさきのスカートの女」と呼ばれている女性のことが気になって仕方ない。彼女と友達になりたい。彼女の行動を観察し、誘導して自分と同じ職場で働かせることに成功するが、意図通りにはいかないことが起きる。やがて事件が起き、「むらさきのスカートの女」は町を去ることになるが、「わたし」は彼女の面影を抱きながら町に残り続ける。

小説の語り手≒読者

小説の語り手は通常、それが一人称でも三人称でもある程度中立な視点に立っている。「神の視点」と呼んでもいいかもしれない。それは観察者の視点であり、読者にストーリーを媒介するための中立で俯瞰的な語り手を担う。

「むらさきのスカートの女」が斬新なのは、その語り手がとても歪んでいるところ。非常に限られた視点で、不安定で、事象を主観的に捉えているので、読んでいるこちらも独特の不安さを抱える。そして、事実を俯瞰的に捉えて伝えてくれる存在がいないため、それは読者自身が担保することになる。そこが、とても面白かった。

「むらさきのスカートの女」を語る、「わたし」こと「黄色いカーディガンの女」の話はほとんど出てこない。この語り手についての想像をどう持つかによって受け取り方が変わってくる小説だと思った。これはとても新鮮な体験だった。

ストーカー?あるいは他者への依存について

「わたし」は「むらさきのスカートの女」に過剰な思い入れをしている。行動を追跡し、住所を調査し、時には誘導を行う。しかし同じ職場まで誘導してこれたのに、正面から話しかけることはできない。ようやく会話する機会が訪れたと思ったら所長を突き落とした彼女に走り寄り、猛烈な勢いで逃亡のコンサルテーションをする…。

異常、だと思う。同時に私自身が誰かにそんな風に依存することは十分にあり得ると思う。もしかしたら、身近な人じゃなくても、もうしているかもしれない。だって、人はとても孤独でとても寂しい存在で、やっぱり救いを同じ「人」に求めがちな生き物だと思うから。そして、自分が何かに依存していることに気づくことは難しい。

「わたし」は「むらさきのスカートの女」が自分と似ていると感じていたと思う。同じように一人ぼっちで経済的に困窮していて、日々をやり過ごしているような人だと。だから彼女なら自分を受け入れてくれると思ったんじゃないか。理解してくれると思ったんじゃないか。そう思うと、彼女の語りが救いを求める声に聞こえてくる。



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