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 中上健次の「岬」という本を買った。まだ殆ど読めておらず、こういう読書停滞期はネタバレ覚悟でパラパラとその後の文体だけを眺めることがままある。割と説明的な印象を受けるが、小説は大体そうか。場面を説明して、合間に会話が差し込まれていく。そのバランス感覚もまた小説家たちの美意識に左右されているのだろう。ストーリーばかりにこだわるのは二流の楽しみ方だ、みたいな偏見を僕は持っていて、でもそういう楽しみ方も元は大好きで、不要な板挟みに自ら足を突っ込んでいる状態である。
 読書歴は大したものじゃないが、音楽歴、特に演奏歴は割とある方だと思っていて、だからこそ音楽が純粋に楽しめない節もある。どういう演奏技術が使われていて、どういう和声で、進行で、どういう録音環境で、そんなことが無意識に情報として脳に流れてくる。ものはいいようで、そうした状態が勝手に起こってしまうのであれば、それは今の自分にとってはあくまで純粋だとも言える。要は、そのような情報の波など入って来ず、音楽を聴いて、音楽を楽しむという単なるひとかたまりに戻れなくなっている、ということが言いたい。いや、嘘かもしれない。むしろ何も考えていない自分もいる。どちらの自分もいる。それでいい。この話はここで打ち切る。

 近頃、また同じ一日がやってくるのかと気が滅入り、眠るのが遅くなっている。今もそうで、微妙に腹の減る深夜一時半に、この文章を書いている。
眠るのを遅らせたところで出勤までの時間が延長されるわけでもあるまいに、愚かな擬似引き延ばし行為といったところだが、結果としてそういう行いを為していることは紛れもない事実でもある。こうした閉塞感をエネルギーにして暗い音楽を続けてきたけれども、そのうち辞めねばならないと感じている。したくもない自慰行為の最中が最も虚無で、自分への嫌悪感がただ増していくのみ。先日渋谷のタワレコ8Fで購入したFUGA LIBERAというレーベルのクラシックとアンビエントの掛け合わせみたいな音楽を聴いているけれども、そこまで救いにはならない。むしろ、閉塞感を増幅させる働きをしかねないため、聞くのを止めた方がいいかもしれない。

 フルタイムで働きながら活発に音楽活動をしている方々を見ると、単に尊敬の念が興る。仕事が楽しいのか、あるいは楽しくなくとも前を向ける心持ちでいられるのか、そちら側ではない僕からしたらわからないことだらけなのだけれども、そうなれたらいいなとも思うし、そうはなりたくないとも思う。一個のことしかできないから仕方なく音楽家になった、とか言ってみたいものである。大抵、そういう音楽家は実家に何かアドバンテージがある。東京生まれで実家に住んでいたり、郊外だとしても親が高レベルの音楽家であったりと、何か土壌がある。別に僕の実家が恵まれていなかったなどということはなく、むしろ恵まれていた方だった。しかし24歳になった今、自分はいわゆる回避性の愛着障害であることが明らかになり、これは高所得帯に起こりがちであろう、というところまで思考は及んでいる。収入は高いがあまり子供に興味はなく、でも金は出す、といった構図である。
贅沢言ってんじゃないとヤジが飛んできそうなものであるが、体験者であればまあわかると思う。大学2年くらいから都内の様々なクラブやミュージックバーを訪れたとは思うが、自分と同じ匂いがする人々が集まる箱もあれば、手厚い愛情を受け、広く深い友情を築いてきたのだろうと即座にわかるような人が集う箱もある。後者の方が健康的な態度であるのは間違い無いのだろうが、その間違いなさが必ずしも僕にとってプラスに働くとは限らない。

 仕事の話に戻るが、仕事の話に戻るとやはり閉塞感という文字列に脳が向かざるを得ない。安易な資本主義批判は嫌いだけれども、いざ自分が社会人になると、その態度には容易に共感できてしまう。これは人類に適した幸福のあり方なのか?幸福とは何かを考えなければならない社会ってなんだ?と疑問符は連なってゆく。こうした世界からの逃避として素晴らしい芸術作品が生み出されているのは了解しているし、そういう切羽詰まった感覚は嫌いじゃない。というか僕はその感覚そのものに支配されて生きていると言っても差し支えない。数年前に「感傷マゾ」という言葉がやや流行ったが、まあ要はアレである。失われた何かに恋焦がれ、心はぐいと引っ張られ、常時ストレスがかかった状態となる。健康的ではない。取り戻すことはできない過去に執着するのは、健康的な人にしてみれば単にアホだと思えるだろう。
その手で先の人生を決定せぬか、動けコラ、という塩梅で。要は実存主義である。ハイデッガーの書いたことは難解すぎて表面も表面、もはや陳腐な自己啓発に成り下がった決まり文句しか知らないのだが、彼曰く「いつか死ぬという事実を真正面から受け止めた時、人間は初めて真の生き方を得る。」とのことで。間違っていたら申し訳ない。言わんとすることはもちろんわかる。人生の有限性を意識すれば行動も変わるモンだぞ、と。ここでイメージをしてみたい。一週間先に自分が死ぬかもしれないと分かった時、自分は何か、これまでの日常とは劇的に異なる行動を起こすのだろうか?答えはNOである。多少美味い飯を食ったり友人に会いにいくなどするだろうが、それはあくまで例外的な態度でしかない。一週間後に死ぬという事実を突きつけられた時に一瞬生じる焦りに動かされただけで、特に根本は変わっていない。
二日くらい遊び呆けたところで飽きて、後は単に死を待つだけとなりそう。
このくらい大哲学者は考えていると思うので、ハイデッガーは別にこういう意味合いで捉えてほしかったわけではないのかもしれないが、今の僕にはここまでしか思考が及ばない。不甲斐ない。

 閉塞感の話に戻りたい。凡人の僕はこう思う。閉塞感は一体どう打破したら良いのか、と。閉塞感を演出している正体は明確で、安月給のフルタイム労働である。特にチャレンジングなことはしなくて良い代わりに、報酬は半永久的に変わらない。僕の労働条件がそうなっているというのもあるが、ぶっちゃけ昇給制度のある仕事だとしても、ほとんど同じ心持ちだったに違いない。ならばその仕事を辞めればいいじゃないか、と。そんな発想は飽きるほど何度も思い浮かんでいる。後先考えずに辞めてしまって、行き当たりばったり、目の前を善くすることだけに注力しなさい、と。そしたら、どうせ週5でバイトしていると思う。それ以外に生きる方法を知らないからである。金を稼がないと生きていけないのか?

 芸術は爆発と誰かが言ったが、まさにそうだとは思う。ただ、問題は爆発のさせ方である。渋谷のスクランブル交差点の真ん中で大声で叫べばアートなのか。それは承認欲求が形を変えただけではないだろうか。美しい爆発とは何か。発想はいくらでもあるが、時間も金もないと嘆くしかない。時間も金もうまくやれば作れるのだろうが、そこまでの情熱はない。そこまでの情熱がないのは悪か?そうでもないと思う。それを超えるくらいの情熱がないのなら誰も芸術家になれないのか?そうでもないと思う。親世代が口酸っぱくほざいてくる決まり文句である。その苦労を惜しむならその才能はそれまでだった、と散々親に言われてきたけど、それは社会の問題じゃないのか?
土壌の問題じゃないのか?僕はそう思う。誰しもが芸術家になっていい。
爆発していい。決まりきった労働活動を全て取っ払って、ある種の死に直面しながら芸術活動をしてみたい。でも野草は食べたくないし、高架下でうずくまって睡眠などとりたくない。極端だろうか。極端だろうな。

 爆発さえできないまま世界の一要素として生涯を終えるのか。今すぐ生涯が終わるなら話は別だが、人生はこの先恐らく長い。しょうがないしょうがないと呪文のように呟きながら小さな画面に向かう人生か。なぜ週七分の五を興味もない物事に費やさねばならないのか。自分で選んだ道だからか。本当か?これは全て僕の責任なのか?投げやりな態度とはいえ別に間違ったことは言ってないだろう。

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