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逃避

 僕の興味は現状大きくいうと一つしかなくて、この先どう生きていくか、ということで。またそれか、と僕をよく知る人はゲンナリするかもしれないが、昔から、下手したら小学生の頃から変わらない。正確に言えば、かつては”興味!関心!”と無垢に呼べていたが、今となってはほぼほぼ死活問題に近い。冗談じゃなく死が目前に迫っている感覚で、かなり心労する。ある程度自分にとって好ましい内容の仕事をしつつ、週に仕事と同じくらいの時間を設け、旅、読書、時には恋愛、その他趣味を嗜む暮らしをできている人は一体この国にどれだけいるだろうか。ましてや、子育てをするとなれば難度は跳ね上がる。それは主に、金銭的な事情によって。

 人間は余剰を楽しむ点、また言語を操れる点において他の動物との線引きが可能である。人間もただの本能に従う動物であるとする考えもあるが、僕はそれには全く同意できない。それは何かに依存している人間の物言いであり、依存を正常と捉えようとする働きによるものと思う。人間は余剰を楽しむ動物である。積極的にこの立場を捉えた時、我々の目に今日の社会はどう映るだろうか。僕には違和感しかない。健全でない。というのも、生活パターンがあまりに画一的だから。多様な社会という言葉が一人歩きしているが、目の前にある閉塞感は一向にして晴れる気配がない。もちろん一朝一夕で何かが変わるなどとは思っていないし、そもそも期待していない。全てをフラットにする思想は、我々そのものがAI的振る舞いをすることを半ば強制してくる。生の感情を捨て、ふらついた全く重みのない言葉で紡がれた理想論を内面化しろ、と。そして世の中は少しずつその方向に向かい始めている。綺麗な言葉だけを述べるよう統制してくる。それが本気で正しいと信じ込んでいる人々が現れ始めている。僕には到底解せない。近々AIが子供に教育を施し始めるのではないか、そんな恐怖が止まらない。そうした教育を受けた子どもたちが大人になった時、果たしてそれは人間と呼べるのだろうか?別にシンギュラリティが怖いとか言っているんじゃない、そんなファンタジーまがいのことはどうでもよくて、既にもう終わり始めていることがただひたすらに怖い。

 そういうわけで、僕は闘争ではなく、逃走を考え始めている。正直言って未来の子供達がなるべく幸福になるように、などと考えている余裕はなくて、自分のことで精一杯である。自分がいかに残りの人生を生き延びられるか、さもなくば”生き延び”ではなく”健全な暮らし”に辿り着けるか、それだけを考えている。他人のことを気にする暇などなくて、せめて近しい人だけでも似たような生き延び〜健全な暮らしに到達してくれれば、という思いだ。この世界をまともにする方法を、強いて一つ挙げるならば、非常に発言が憚れることなのだけれども、他国の戦争について情報集めばかりして悲しんでいる場合ではなく、自分自身がいかにより善い生活を今後送れるか、そのためにどうやって逃避と努力を重ねていくのか、そのことに集中すべきだと、強く信じている。SNSで戦争反対や署名活動に興じたところで、かの国の戦争にクリティカルな影響は与えられない。ただただ日本という国の中で、君も私も戦争反対”派”だねと同意を得て安心して、仲間意識を強固にしているだけに過ぎない。それよりも、自分の手の届く範囲で、自分ができることや少し難しいことだったりに集中して、周りの人にも好ましい影響を与えんとすることこそが、地道で、泥臭くも、実質的にこの世をマシにする合理的な態度だと思う。それこそが、戦争を無くすための地道な一歩なのだと信じている。それでもまだ体力的・精神的・金銭的余裕のある人が、直接的な反対運動を行えば良い。とはいえ、今の日本にその余裕はないだろうが。

 あえて「合理的」という言葉を使ったが、僕はこの言葉を単に資本主義社会での用法に留めたくない、という思いがある。効率、コストパフォーマンス、タイムパフォーマンス等々近頃よく耳にするのだけども、これらと「合理的」であることには雲泥の差がある。合理的態度というのは、あくまで幸福の最大化を指し示しており、何かを犠牲にして目先の快楽を手にすることではない。極端にいうならば、何か間違うという経験は、合理的である。それは経験者の人生にその先寄り添い続け、指針を与え得るからである。同様に、金儲けの観点からすれば全くの無駄である行いも、また合理的である。それは人生を豊かにするという観点から。金儲け以外の幸福の軸を形成すること以上に、幸せに向かう道筋として合理的なものはそうそう無いはずである。現代社会で幸せと呼ばれている軸以外に幸せを生む装置を獲得することができれば、そしてそれがムラ全体に広がれば、そのムラはかなりマシになるだろう。「効率」に代表される近頃のトレンド(映像作品の倍速視聴、書籍の要約動画等々)は、確かにその分別のコンテンツに移行するまでの間隔を狭めることができ、幸せをいくつも摂取できるような感覚に陥る。しかしこの行いは、自らを”消費”演算の早いコンピュータへと向かわせる。消費のロボットに近づく。プロ消費者になる。肩書きが「消費師」になる。名刺に書ける。あなたがこれを幸せというならば、端的に言って、あなたは死んだ方がいい。暴言を吐いているのではなくて、それがあなたが幸せになる、それこそ最短距離だからである。労働による疲労の埋め合わせのために大量にコンテンツを消費して逃避しなければならないのなら、暇に耐えられないのなら、そうした方が良い。これは真顔で言っている。でも死んでほしくないから、一緒に逃げよう、と声を掛けている。

 結構な数の人々が一度は疑問に思うことがある。実働160時間で月々20と数万の手取りというのは本当に見合っているのか、と。ゲーム理論の均衡によって導き出された結論なのだろうか?本当か?本当だとして、我々はそのことについて何か教育を受けたか?国によって違うのでは?そもそも貨幣も物価も違うし比較困難では?疑問符ばかりである。つまり価値を実感として感じることが単純に難しい。古代の暮らしを無闇に礼賛するつもりは全くないのだが、かつての物々交換の制度では、どのくらいの食糧があれば自分が、あるいは家族が生きていけるのかが肌感としてわかるし、そこに贅沢も何もない。受け取った食糧がしょぼいのか贅沢なのかは受け取ったその時点で決定するため、何も迷いは生じない。しかし貨幣制度の場合は、受け取るのはただの数字であり、何を購入するかは消費者に委ねられている。だから怖いのである。手取り20万を1日で使い切ることなど容易も容易だ。選択肢はほぼ無限にある。この自由は果たして幸福に結びついているだろうか。否応なしに欲望を刺激され、それゆえに節制も強制される。自由どころか圧力の雨に終始打たれている状況で、果たして健全と言えるだろうか。人間は一定以上の自由を与えられた時、ショートするのである。

 僕は、今日の労働のお昼休みに、現実的に、積極的に、前向きに、逃避することを決めた。願わくば、その先の健全な生活を祈って。巨大な圧力を前にして、まともに向き合っていたら心身ともにもたない。手遅れになる前に、まだ若いうちに、逃避の道を開拓していきたい。

 皆様の、そして僕の穏やかな暮らしを願って、この辺りで失礼致します。

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