【日本史】江戸幕府の成立~大阪の役を解説してみた!

はじめましての方ははじめまして、こんにちはの方はこんにちは!!
超ド文系のみんとです!!

今回は前に学校でやった江戸幕府のところを復習がてら記事に書きました。

気づいたらめちゃくちゃ長くなったので気になるところだけ拾って読んでもらえたら嬉しいです!!笑

では、本文へGO~

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家康さんが江戸幕府開く!

桶狭間の戦い(1560)のあと、徳川家康は自立し、信長とは同盟を組んで関係を保ちました。
(そう考えると、家康ってめっちゃ強かったんだな…太ってるイメージしかないけど笑)

その後、主君の秀吉から「関東へ行けー!」と言われ、約250万石の大名に!!(1590)

当時豊臣政権の五大老(家臣の中でもトップクラス)のリーダーだったこと、秀吉たちが頑張ってた文禄・慶長の役には(その時関東に飛ばされてたから)出兵しなかったことからその後もメキメキと力を付けていけた家康でしたが、1600年に関ケ原の戦いが勃発!

関ケ原の戦いは「天下分け目の戦い」とも言われます。初めは石田三成、毛利輝元率いる西軍が有利でしたが、小早川秀秋の裏切りによって結果的に東軍が大勝しました。
(午前8時に始まって、午後2時に終わったって…たった5時間で天下を分けるのはかなりヤバい)

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関ケ原の戦い 出場メンバーまとめ!

【東軍】最近キテるメンバーが揃いました(*‘ω‘ *)
  
……徳川家康、(徳川秀忠)、福島正則、加藤清正、黒田長政、池田輝政

【西軍】豊臣こそが命!!!!(炎)
 ……毛利輝元、石田三成、小西行長、宇喜多秀家、島津義弘、小早川秀秋

今は当時の戦いの様子まで分かってしまう…(日記とかが見つかってる)
ちなみに、「軍記物」と言われているものはまるまる史実じゃないから注意!!

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関ケ原の戦いで見事勝利した家康は、1603年に征夷大将軍の宣下(天皇様から「征夷大将軍として頑張ってね~」って任命されること)を受けて江戸幕府を開設!

この時、まだ7歳だった孫の千姫ちゃんを秀頼さんに嫁がせます。なんでも、亡き主君秀吉との約束だったらしく…
関ケ原ではめっちゃ敵でしたけどね、その辺はちゃんとしてるんですかね(白目)
まぁ、秀頼のおじいちゃんの立場になっとけば政治しやすいって思ったのが理由の一つにあるとは思いますが。
てか7歳でお嫁に行く千姫ちゃんの気持ち、知りたい。どんな心境なんだろ??


家康さんが幕府のトップとしてやったことを大きくまとめると…

①全国支配権をはっきり示す
②将軍の世襲制をはっきり示す
③豊臣氏を滅亡させる!!!!

の三本立てです。

では、1つずつ見てみましょう~(; ・`д・´)


①全国支配権をはっきり示す

・国単位で国絵図・郷帳の作成を全国の大名たちに命じる
(国絵図は絵で国について書いてあって、郷帳は文字で書いてある!)

・「江戸城と市街地作れーー」と、普請(建築関係の命令)を全国の大名たちに命じる

②将軍の世襲制をはっきり示す

1605年に徳川秀忠に将軍職を譲る!

家康さん自身は完全に手を引いたわけではもちろんなくて、大御所として駿府(駿河の中心)に移って実験を握り続けます。
(大御所って言ったら芸能人でも特にすごい人をいうイメージだからなぁ)

③豊臣氏を滅亡させる!!!

方広寺(大仏殿)鐘銘事件(1614)
・大阪の役(冬:1614 夏:1615)

家康さんは、関ケ原の戦いのあとも権威を持って、めちゃくちゃ裕福な暮らしをしていた豊臣氏を内心ちょっと怖かったので、「もういっそのこと滅亡させる!!」と決心しました。

まず何かきっかけがほしい家康さんは、とりあえず方広寺(秀吉が建てたところ)に徳川側のスパイのお坊さんを設置します。
作戦はなんと成功、スパイから告げ口が来ました。

「方広寺の鐘に『国家安康・君臣豊楽』って掘ってありました」

『国家安康』は「家康の首と胴体を切り離す」、
『君臣豊楽』は「豊臣家繁栄」って意味です。簡単に言うと。

え、エグいな!?!?笑

これに対し、家康は、

家康「これは豊臣家だけの繁栄を願うものだ。徳川の滅亡を願っているのか??ああん???」

となり、無事きっかけづくり完成。

早速
1、家臣になれ
2、母親(淀殿)を人質としてこっちへよこせ
3、大阪城から退却しろ
の3つを要求します。行動が早いこと。笑

でも、秀頼さんはさすがにそんな要求飲めません。
ていうかそもそも、掘らせたのは秀吉だから秀頼さん関係ないし。(関係はあるか、あるな、おおありだな笑)

でも、要求を飲めないときたらもう家康さんは準備万端です。この日のためにやってきたのですから。そう、豊臣滅亡!!

家康は牢人(失業中の武士)を集めて兵を大きくして、さらに押しでもう一回秀頼に和睦を求めます。
(兵も集めて戦う気まんまんなのにそれでも和睦のチャンスあげるのはやっぱり一応おじいちゃんだからかな)

1、人質として母親よこせ
2、大阪城から退却しろ
3、大阪城の外堀埋めさせろ(攻めやすくする)
4、大阪城の中の牢人を全員解放しろ

あれ、増えてる。笑

でも、そろそろヤバいなと思ったのか豊臣家はここで和睦を許可します。

そして12月23日、徳川側は大阪城の堀を埋め始め、気づいたら外堀だけじゃなくて中の堀まで埋めていました。
→「話が違うじゃーん!!」と、豊臣家は牢人を呼び戻します。

5月5日、豊臣家が戦うつもりだと見た家康が京都の二条城を出発!
真田幸村に苦戦しながら前に進んでいたら秀頼と母親の居場所が知らされます。

「俺そっち行くから、危険になる。千姫は戻ってきなさい」と逃げさせ、千姫ちゃんに秀頼の命乞いをされたので家康さんちょっと迷います。

「命をとるべきか、とらぬべきか。74歳にして罪あらば受けてもいいだろう。秀頼を切腹させよ。」

家康さんは源平合戦を勉強していたから「秀頼を残していたらまずい!」と思っていました。
でも、孫の婿を殺すのはさすがに世間から批判の対象になってもおかしくないなぁと、迷いに迷ったあげく、武士としての名誉を守った命の取り方である「切腹」の命令を下しました。
(武士の情け的なやつ…?てゆーか家康さんいい人っぽくない…?)

この一連の流れの中で、きっかけとなったのが「方広寺鐘銘事件」、秀頼切腹までが「大阪の役」と言います!

ちなみに、この大阪の役をきっかけに大きな戦いが(島原天草一揆を除いて)なく、平和な時代が訪れたので、

元和偃武」=「武をやめた平和な時代の始まり」

と言われたりします!!


そしてそして、大阪夏の陣(1615)の翌年の1616年、太政大臣に就任し、家康が亡くなります。
その後、駿河国に埋葬され、下野国日光に改葬されました。
(東照宮に行ったとき、家康様にたどり着くまでだいぶ歩いて疲れたのを覚えています…埋葬するの大変だっただろうなぁ…)


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ここまで読んでくれてありがとうございました!!

今回は「【日本史】江戸幕府の成立~大阪の役を解説してみた!」ということで、日本史の解説をしていきました!!

一応、今回出てきた重要用語だけリストアップしておくので参考にしていただけると嬉しいです!!

【江戸幕府の成立~大阪の役 重要用語】

・徳川家康      ・徳川秀忠
・関ケ原の戦い    ・大御所
・石田三成      ・方広寺鐘銘事件
・江戸幕府      ・大阪の役
・征夷大将軍      ・元和偃武
・国絵図、郷帳
・普請

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