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『イカゲーム』登場人物たちが "守りたかったもの" についての考察
Netflix配信ドラマ「イカゲーム」を完走。
鑑賞後、劇中で繰り広げられる「ゲーム」の参加者について、様々な感情を抱いた。
彼らの共通点は、人生の崖っぷちにいること、そして多額の借金を抱えるなど金銭的な問題を抱えていることだ。
そして、追い詰められた彼らには、デスゲームへの参加しか選択肢が残されていない。
それは、「死ぬかもしれないという恐怖」と「大金を手に入れ人生をリセットしたいという欲望」のせめぎ合いに身を投じることであり、それこそがこの物語の骨格にもなっている。
このように、追い詰められた人間による究極の選択の行き着く先が描かれているのが「イカゲーム」。
ここでは、主人公ソン・ギフン、その幼馴染チョ・サンウ、そして、脱北者カン・セビョクといった、主要登場人物たちが「守りたかったもの」について考察してみたい。
1.No.218 『チョ・サンウ』-ソウル大卒のエリート-強者の論理を振りかざす
パク・ヘス演じるチョ・サンウ(46歳)は、双門洞の天才と呼ばれた男。
ソウル大学の経営学科を首席入学した秀才だ。独身。鮮魚店を営む母がいて、サンウの幼馴染でもある。
証券マンとしてエリート街道を歩いていたはずの彼は、顧客の金を横領した上に先物取引に失敗。
その損失額は6億5000万ウォン(実は全部で60億の負債を抱えている)。
検察・警察から追われ逃げ場を無くした彼は、大金を手に入れるべく、ゲームに臨む。
まずは1回目のゲーム「だるまさんがころんだ」が開催され、サンウも訳がわからぬまま参加する。しかし、そこで見た光景はゲーム脱落者がその場で射殺されるという、おぞましいものだった。
さて、456人が参加するこのゲームでは、「参加者の過半数の同意があればゲームを中断することができる」というルールがある。
参加者の半数が殺されるのを目の当たりにしたサンウはもちろん、参加者全員が恐怖に慄き、ゲームの中断を提案する。
しかしその訴えの直後、一生かかっても手にすることのできない大金を人参のようにぶら下げられ、参加者の心は大きく揺らぐ。そして、「このまま日常に戻ってもまた『あの地獄』が待っているだけだ」という現実が、サンウをはじめとする参加者の脳裏をよぎる。
これ場面こそが、その後も幾度となく訪れる、「死ぬかもしれないという恐怖」と「大金を手に入れ人生をリセットしたいという欲望」の最初のせめぎ合いとなる。
ともあれ、「だるまさんがころんだ」で半数以上が殺された後、残るゲーム参加者は201人。過半数の101人以上が同意すればゲームを中断できる。
結果は、101対100でゲームは中断。
さて、ここで注目したいのは、参加者の内100人が自分が勝ち抜けるかも=自分は死なないとだろういう希望的観測をしていること。そしてその希望的観測に基づき、201分の1の確率に自分の命を賭けようとしていることだ。
確かに宝くじで1等をとるよりは断然高い確率だが、95.5%の人はゲームに負けて死ぬ。にもかかわらず、その事実には目をつぶっているのだ。
あるいは、借金まみれの生き地獄を思えば、一攫千金にかけた方がましということなのかもしれない。
サンウに至っては、逮捕されるくらいなら自殺でもしそうなほどの崖っぷち。
そういう意味では「どうせ死ぬならこのチャンスに賭けてみたい」ということか。
話を戻す。
「死ぬかもしれないという恐怖」と「大金を手に入れ人生をリセットしたいという欲望」のせめぎ合いの結果、サンウは「大金を手に入れ人生をリセットしたいという欲望」を選ぶ(結果は上述の通りだが)。
ソウル大学首席入学の成功体験を持つ彼には「自分とここにいる奴らとは違う」というエリート意識があったはず。自分は優秀だから勝ち目はあるとも思っただろう。
実際のところ、彼は人々に羨まれる人生を歩いてきた。
が、横領や先物取引の失敗で自ら転落を招いた。
そして、それら一連の失敗と転落は、彼のプライドをズタズタに引き裂いたに違いない。
でも、視点を変えれば、サンウのように能力のある人間なら、自己破産をし、罪を償えばやり直すこともできたはず。
しかし、そうしない理由があった。
それは、自分を「自慢の孝行息子」と信じきっている母親のため。
母親を裏切り、実家と鮮魚店まで担保に入れていたサンウは、なんとしても金を手に入れる必要があった。自分を盲目的に愛し信じてくれる唯一の人、母の期待を裏切ることは彼にとって耐え難いことであり、それに対するプライドだけは捨てていなかった。
つまり、サンウが守りたかったものとは、「母親」、そして地に落ちた彼に残った「最後のプライドのかけら」なのだ。
ともあれ、頭の良いサンウは姑息に立ち回る。
自分の武器である明晰な頭脳を使い、勝ち抜くために常に冷静に行動している。
一方で、ゲーム中断で日常世界に戻された際、一文なしの外国人ゲーム参加者「アリ」にバス代を与えるなど、優しさも垣間見せる。
自分がどん底にいるにもかかわらず、そんなことができる彼の本質は「悪」ではないのだと思う。
さて、崖っぷち度「レベル高」のサンウは、自分が勝ち残るために手段を厭わず突き進む。幼馴染や仲間を騙すことも厭わない。得になると思えば良い人のふりだって忘れないし、目的のためには感情だって捨てられる。
何事もただ一つの目的、「勝つため」なのだ。
言ってみれば、このドラマにおけるサンウの存在意義とは、勝ち組的思考を持つ人間の傲慢さを体現することでもある。弱肉強食世界のルールを深く理解し、生き残るためにはどこまでも利己的なれる男サンウの存在が、真逆の性格である主人公ギフンを際立たせるのに貢献している。
いずれにしても、ゲーム参加者の中で、サンウは完全なる強者側の人間だった。
2.No.067 『カン・セビョク』ー脱北者ー利他的な人生を生きる女
チョン・ホヨン演じる一匹狼のカン・セビョクは脱北者。
脱北に成功した弟と共に韓国に暮らす。
が、彼女の人生は困難の連続。
父は脱北途中に撃たれ川に流され、母は捕まり北の公安に連れて行かれた。おまけに「せめて母を脱北させるために」と、命懸けで手に入れた金をブローカーに持ち逃げされる。その額4000万ウォン。
他のゲーム参加者に比べれば少額だが、脱北者の彼女にとっては大金だ。
そして、母に会いたがる幼い弟のためにも、セビョクはデスゲームに身を投じる決意をした。
さて、セビョクと他のゲーム参加者には大きな相違点がある。
それは、彼女が脱北というサバイバルを生き抜いてきたという点だ。
祖国で生きる抜くこと、脱北すること、そのどちらも命懸けだったはず。
要は、彼女は文字通り「命を賭けること」の経験者なのだ。
そういう意味で覚悟と強さのレベルが他の参加者とは違う。
さて、セビョクの置かれた環境を最もわかりやすく描写したエピソードがある。
それは第6話。
話は逸れるが、第6話こそがこのドラマでキーとなるエピソードだ。
もしこの第6話にテーマがあるとすれば、「人間の利己的な行動と利他的な生き方について」というところではないだろうか。
ちなみに、セビョクと、彼女のゲーム対戦相手であるジヨン、この二人が持つ本質は「利他」なのではないかと感じる。
まずはジヨン。
彼女にはこのゲームに勝ち上がる目的がない。
「ここを出たら何をしたいか」というセビョクの問いに「考えたことない」と答えている。
そして、こうも言う。
ここを出る理由が 私にはない
出たら何するか ずっと考えてみたんだけど
いくら考えても思い浮かばない
理由のある人が出て
ジヨンは父親殺しの罪を償い出所した後、ただ流されるままにこのゲームに参加した。
そのあどけない表情からは想像もつかない辛い経験をしてた彼女は、お金に全く執着していない。いや、お金だけじゃない。生きることにも、だ。
死にたいとは思っているわけではないにせよ、生きたいという強い意思はない。辛い経験が彼女の心を壊してしまっている。
そんなジヨンは、父親から受けた虐待のせいで自分の意思とは関係なく、利他的に生きていくしかなかった。
一方のセビョクは「ここを出てやりたいこと」が明確。
それは家族を救うこと。そして安全な生活を手に入れること。
そのために、絶対に勝ち上がって金を手に入れる必要がある。
この対照的な二人の描写から、生きるために必要なのは目的なのだと強く感じる。
生きる目的があることは、生への執着を生み出す。
その目的が道徳的であろうとなかろうと、ポジティブであろうがネガティブであろうが関係ない。目的こそが人を生かすのだ。
しかしふと考える。
セビョクの目的は彼女を生かしてはいるが、果たしてそれは彼女にとって幸せなことだったのだろうか。
セビョクの行動の原点にあるのは「家族」であり、それこそが、彼女が守りたいものでもある。
セビョクにとって、家族という「愛する人たちの存在」が生きる力だったとするならば、一方で彼女をデスゲームに挑ませたのも、その「愛する人たちの存在」だった。
そういう意味で、セビョクはどこまでも利他的に生きた女と言えるのかもしれない。
3.No.456 『ソン・ギフン』ー運転代行ー葛藤の末に行き着いた場所とは
イ・ジョンジェ演じる主人公ソン・ギフンは47歳。
いい歳をして母親の金をこっそりくすねてギャンブルをするような、典型的なダメ男だ。
高卒のギフンは会社員を経て飲食業を試みるも失敗。現在の仕事は運転代行。
離婚歴があり、元妻が引き取った娘が一人いる。
そして、高利貸しに1億6000万ウォン、銀行に2億5500万ウォンの借金がある多額債務者でもある。
それにしても、なかなかのダメっぷりを発揮するギフン。
計画性は皆無で今を楽しむ刹那主義者。
おまけに、根拠なく楽観的で考えも浅はかだ。
でも、そんな彼にも良いところはある。
人のよい顔つきそのままに、善良なのだ。
彼の長所は人を思いやるとか人を信じる力があること、人間らしい感情を大切にしているところ等々。
少々お節介だが、とにかく共感力の高い男であることは間違いない。
さて、彼がゲームに参加したきっかけは借金はもとより、元妻が育てている娘と、苦労をかけている母親のため。
元妻の再婚相手が娘を連れてアメリカに行ってしまうことを知ったギフンは、彼女を引き取りたいと考えるも金がない。
そこに病気を患った母の入院費や治療代が必要になるという、緊急を要する事情も加わった。
途方にくれた彼は「ゲームをするだけで金が手に入る」というイージーさに惹かれ、一か八かのゲームに挑むのだ。
しかし、そこで目の当たりにしたのは想像を絶する殺戮の世界。
皆が生きるか死ぬかで殺伐とする中、ギフンは恐怖に背中を押されながらゲームに参加する。
ゲームにおいてもギフンのダメっぷりは相変わらずだが、彼は実のところなかなかしぶとい。頭がいいわけでも、腕力があるわけでもないギフンの数少ない長所が功を奏するのだ。
たとえば、自分の利益よりも他人への思いやりが先に立つギフンは人に嫌われない。そのおかげで、いざという時に人の助けを得られる。
また、ゲームで数字を選ぶ、すなわち生死を左右する超重要な選択の場面でも人の良さを発揮。懇願されれば数字の交換も厭わない。そしてそれが、結果としてギフンを死から遠ざけることになる。
つまり、彼の行動は常に良き結果につながり、ひいては彼が生き延びることを助けるのだ。
弱肉強食の世界では利己的人間が強いものだが彼はその法則を覆す。
一方、利己を発揮するサンウは「飛び石渡りゲーム」で参加者をその手で殺すまでして、勝ち上がっていく。
そして、その自分の行動をこう説明する。
俺が生きているのは 自分で必死に頑張ったからだ
自分を肯定するサンウを見るにつけ、強者とは自己正当化の達人なのだなと思わずにはいられない。
ともあれ、そこで黙っていられないのはギフン。
サンウが突き飛ばして殺した男のおかげで、サンウ共々生き延びたと考えているギフンにとって、サンウの行動は許し難いものだった。
が、ここは「やらなければやられる」世界。
ギフンの怒りを綺麗事と一括するサンウはもはや冷静ではない。一方、異常な状況下においても、自分が信じる「正義」が揺るがないギフンは、自分を見失っていない。
それまで「典型的ダメ男」として生きてきたギフンが、生きるか死ぬかの瀬戸際で、自分が信じる正義と向き合い葛藤し続ける様子が丁寧に描かれるのは、サンウ的強者思考との対比として、この物語の肝のひとつなのだ。
だからと言って、ギフンにしたって聖人な訳では全くない。
勝ち上がって行く度に誰れかを犠牲にしているのも紛れもない事実なわけで。
罪悪感に苛まれながらも、それでも「生きることへの執着」に抗えないのは、サンウと一緒なのだ。途中でゲームをやめることが許されないなら、それしか生きる道はないということ。
その顕著な例が、ハラボジとの対決だ。
第6話で描かれる「ビー玉遊び」では、死にたくないギフンがズルをしてまでもハラボジに勝とうとする。
もしかするとギフンの頭に「脳に病気を抱えている余命わずかな老人だから…」といった身勝手な考えがよぎったのかもしれない。
そう考えると、「出口のない恐怖の只中にあっては、生きるための行動に例外はないのか」と絶望的な気持ちになる。
善良なギフンでさえ、自分の命のためには他者を見捨て、殺してしまうという身も蓋もない展開に、人間の本質を垣間見る思いだった。
さて、原点に戻ろう。
ギフンがこのゲームに参加したのは、借金を返すこと、そして母親に病気の治療をさせ、娘に親らしいことをするためだ。最初は死への恐怖が優っていた彼も、結局は「大金を手に入れ人生をリセットしたいという欲望」のために戦うことを決めた。
だが、恐怖に支配された空間で過ごし、仲間たちが無惨に死んでいく(そして自分もそれに加担している)という状況下で蓄積された感情によって、ギフンの中に変化が起きた。
彼にとって、母や娘が守りたいものであることに変わりはないだろう。
でも、このゲームを経てギフンが一番守りたかったものとは、「自分がこれまでの人生で信じてきた正義」だ。
そしてそれは「人を信じること」に通ずるのだと思う。
4. 生きるために命を賭けた結末とは
最後にこのドラマを見て感じたことを。
当たり前のことだが「生きる」ことは人間にとって最も重要な欲望だ。
いや、欲望ではなく本能というべきだろう。
私はたちはいつか必ず死ぬけれど、そしてそれがいつ訪れるかはわからないけれど、決して死ぬために生きているのではない。
死は生きた結果であって、目的でも目指すべきゴールでもないのだ。
多くの人は、豊かな人生を生きるために、たとえば美味しいものを食べるために、見たい景色を見るために、心踊る体験をするために、誰かの役に立つために、社会に貢献するために、誰かを愛するために、自分を愛するために、そして幸せになるために生きている。
この他にも、たくさんの生きる意義はあるだろうけど、とにかくそれらは生きていなければ味わえない。「生きる意義」は「生きること」と同義であり、つまるところ、わたしたちは生きるために生きている。
一方、このドラマにおいて、ゲーム勝者は幸せにはなれなかった。
残ったのは虚しさと苦悩だけ。
それはつまり、命を賭けて参加したゲームで得た「金」で、生きる意義を得ることはできなかったということ。
だからといって、どうすればよかったのか。
死んでしまったら終りなわけで、だからこそ、ゲーム参加者たちは生きるためにもがいた。文字通り「命まで賭けた」のだ。
とは言え、デスゲームという特殊な設定において「どうすればよかったか」の答えが出るとは思えない。
でもせめて「命を賭ける」という言葉は実行するのではなく、言葉の世界にそっと置いておく方がいい。
「生きるために命を賭けるのではなく、生きるために生きなければ」というのが正解だと思うから。
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私が運営している「ミントブログ」でも考察を書いています。
「今際の国のアリス」と似ていると言われる「イカゲーム」ですが、ここでは二つのドラマの相違点から、究極の状況に置かれた人間の感情の行き着く先について考察しています。是非ご覧くださいませ。
(追記:001番イルナムおじいさん、456番ギフンについての考察も書きました。こちらもどうぞ!)