みんなの巡礼
この内容について書こうかどうか、書くとするならどう書こうか、散々考えました。何度もぐるぐると考え、この気持ちにどの言葉を与えるのが適切か、どう表現すればこの状況をうまく、過不足なく伝えられるか、その術を見つけたかったのですが、答えが出ませんでした。なので、上手に書けないかもしれませんが、巡礼の旅を始める前にどうしても今の気持ちを書き記しておきたいという思いがあるので、本当に月並みな言葉しか並べられませんが正直な思いをここに綴りたいと思います。
巡礼の旅について発表し、サポートを募ってから10日以上が経ち、気がつけばあと4日で出発となりました。
この投稿の3日後には熊本を中心に九州で地震が発生し、日本中の人々が悲しみに暮れ、わたしの旅に関するお知らせとお願いは、なんてタイミングの悪く、またあまりにも個人的で、かつ不謹慎だから自重すべきだと言われても仕方のないものなのではないか、という大きな罪悪感にも悩まされました。
また移民局からも通達がきて、その内容はあまりに複雑かつ悲しいもので、ここでは割愛しますが、とどめのパンチをくらいました。不安や後悔が入り混じるなかで、中止という文字だけはわたしの頭の中には全く浮かびませんでした。11年以上にわたって切望してきたこの旅の実現を目の前にして、そう簡単に諦めてはなるものかという思いや、今行くことに大きな意味(旅に意味なんて、人生に意味なんて、そもそも本当はないのかもしれませんが…)があると全身全霊をかけて言える、わたしを駆り立てる不思議な動力という個人的な感情もありますが、それより何よりサポートしていただいた方々からのメッセージをいただくたびに、とても嬉しく、また、多くの方々に支えていただいて実現できることによって、わたし一人だけの巡礼の旅ではないんだ、という思いが生まれてたことが大きいです。
いただいたメッセージをくださったなかには、このキリスト教の聖地を目指す旅を受けて、「信じる宗教は違うけれど、幸せを望む気持ちは同じであり、そして誰もが幸せを受けられる道が必ずくるという道があるように」という願いを託してくださった方や、わたしの書く小説を好きと言ってくださり、巡礼の旅の後に、その旅によってインスピレーションを受けた小説をぜひ書いてくださいと言ってくださった方、何かに熱くなる、ということを忘れてしまったので、わたしのような熱を持っている人たちを応援したいと言ってくださった方、足が悪く歩くことができないので、その方の分までわたしに歩いて欲しいと言ってくださった方、そして、わたしのことをただひたすらに応援し、健康を気遣ってくださる方などがいて、ここには書ききれないほどの思いと、その思いの背景にある人生の一つ一つがあり、それらに少しだけ触れることができたことが、それがこの旅をする意義なのではないか、というくらいに感じられて、感動で身体いっぱいに圧倒されました。
この旅を決意するまでには想像もしていなかったような人生が、本当にたくさんありました。考えてみれば、それぞれの人の裏側に、それぞれの人生があることは至極当然のことなのですが。特にnoteは2年以上やっていることもあり、お会いしたことはないけれど、いつもやり取りをしてくれる人、という方が結構いて、またTwitterを通してわたしを知ってくださった方も多く、スキやコメントを繰り返すうちに、その人のことを、なんとなく知っている気になっていました。わかった気になっていて、何一つその人のことを知らなかった。という、実は当たり前のことに気がつきました。一人一人に長く、濃い人生があり、また一人一人に誰にも言えない思いや、あまり誰にも言うことのない考えや、手放したい過去や、どこかを変えたい現在や、強く願う未来がある。それを知ることができる機会が持てたこと、それだけでわたしは本当に本当に幸せになりました(おいおい泣いてエミールに語りました)。
うまく言えないのですが、勇気を出して、この旅について告知をして、サポートを募って、本当に良かった、と思っています。もちろん、サポートを募らず自分の力で旅をすることが世間からは望ましいとされ、求められていることはわかっています。でも、これを実行したおかげで、いろいろな人の、今まで知らなかった部分を知ることができ、今までとは違う方法で心がつながり、また、いろいろな人が様々な思いをわたしに伝えてくださり、様々なお話をすることができました。そして、それぞれの願いをわたしに託してくださったこと、この人となら共有したい、とお話してくださったこと、わたしの徒歩の旅に希望を見い出してくださったこと、それが心から嬉しいです。これによって、わたしの旅はたった一人で歩く旅ではなく、関わってくださった方々の思いや祈り、願いや希望をバックパックと共に背負って、一緒に歩く旅になりました。
普段は「濃い人生」「意味」「感動」「つながる」「出会い」「みんな」というような安い感動を招く言葉は軽々しく使いたくないという思いがあり、控えているのですが、この数日はこのことを考えるとき、この言葉や概念以外にどう表現すればいいかどうしても思いつきませんでした。
つながることはいつもいいことではないし、しんどい時も、胡散臭い時も、うざったい時もあります。でも今回は違ったのです。わたしは本当につながりを感じました。暖かくて、自分が必要としていたつながりでした。メッセージをくださった方々が、みんな優しい文章を書いてくれて、その真っ直ぐだったり、大きな心だったり、平和を願う内容が、本当に尊くて。とても長い文章を書いてくださる方も多く、それを読むだけで胸がいっぱいになって、本当に幸せな気持ちになりました。
雨が降りぬかるんだ山道や、霧でかすむ明け方の草原、よそ者を知らん顔で見送る牛たちが寝そべる田園地帯や、太陽が照りつけ砂埃が舞う乾いた大地で、わたしはきっと、サポートしてくださる人々のことを考えるでしょう。湿った空気が漂う古い小さな教会の暗い影のなか、冷たい石に囲まれながら、サポートしてくださった人々の幸福を一心に祈るでしょう。
(これは、フィンランドですが😃この記事のほかの写真もぜんぶフィンランドです。ほほほ〜)
わたしは、どうしようもなくダメなところがたくさんある、欠点だらけの人間です(一例を挙げると、計画性がない、ツメが甘い、よく考えずに話し出す、面倒臭がり屋、引き算が苦手、など…)。でも、一つだけ持ち続けていきたいものがあります。また胡散臭い言葉ですが。それは愛です。やっぱり人は愛なしでは生きていけない。人は、愛されてるとわかると、その能力を10倍にも100倍にも発揮させることができるし、おそらく人が最大に幸福を感じる人生の要素の一つでもある(「学び」もまたその一つ)。わたしにとっての愛は、ただひたすらに持つものではない。愛は、自分が押し付けるものではなく、自分が与えられる一番簡単な形の何かでもなく、一人一人へオーダーメイドでつくりあげていく気持ちや行為だと、少なくとも2016年4月22日のわたしは思っています。一人一人、何を求めているかなんて全然違うし、わかろうとしてもすぐにわかるものではない。だからこそ、時間と精一杯の誠意とわかりたいという心を持って、少しづつ突き止めていきたいし、その心遣いや姿勢は愛という気持ちがなくては持ち得ないものだと思います。植物の種類によって、必要な水の量や太陽光線の量が違うように、時にはあげすぎたり、少なかったりもしてしまうけれど。でも大事にゆっくり、観察しながら育てていけるよう、枯らすことのない慈しみの気持ちを持ち続けられるよう、人々に向き合っていきたいです。そしてこんな風に、うさんくさいことを心から決意できたことができたのは、みなさんとつながることができたからです。
愛を忘れそうになったら、この出来事を思い出します。巡礼の旅の前から、こんなに感動してしまった!実際に歩き始めたら、どうなるだろう!
✴︎まだまだ引き続き、サポートをお待ちしております。
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✴︎記事は現在のところ無料にしていますが、サポート機能で常に何円分でも投げ銭できるようになっていますので気が向いたら宜しくお願いします😃
✴︎巡礼の旅が始まったら有料記事を増やしていこうと考えているのですが、方法は思案中です。リクエストやアドバイスなどいただけると嬉しいです!コメント欄にどしどしお願いします。
✴︎巡礼の旅のサポートをしてくださった方全員にお礼のメッセージを送信しましたが、メッセージが確認できていないケースを多く聞きます。特にnoteを始めてすぐの方、記事を一つもあげていない方に多いようです。お手数ですが、まだメッセージがきていない!という方はコメント欄、またはminotone.finland(アットマーク)gmail.comまでメールをくださると助かります。旅が始まるとWiFiに接続できる機会と時間が限られるため、できればその前にメールアドレスやご住所などを教えていただけると嬉しいです。