自己表現がしたいわけでもない
自己表現、ということについて、このところ考えていて、
演劇をする人のなかには、「表現者」を名乗っている人はいるけれど、
わたしは、自分の演劇表現に対して、自己表現という言葉を使ったことはないかもしれない。
自己表現という言葉で言われている自己、というのが、どういう自己なのか、というのが私の気になるところで、純粋に、自己を表現するという意味で言えば、そもそも、今この場に存在していること自体が、ある意味では、自己の表現であると言えてしまうわけで。
(そうであるとすれば、もはや「自己表現」と言うことに意味はないだろう。全てが自己表現なのだから。)
「自己表現」という言葉には、他者への眼差しが見出せない点が、わたしがこの言葉を使いづらいと感じてしまう一因なのかもしれない。
(芸術活動以外を含む)すべての行為が、ある意味では自己の発現である以上、とりわけ芸術活動に特に意味を見出すことができるのだとしたら、それは、自己表現においてではなくて、他者や社会への働きかけにおいてのみ、だと思うのだよな。
「自己表現」と言えど、そこで表現される自己そのものに強く興味を持っている人というのは、(よっぽど面白いやつでもない限り、)家族や恋人と他ならぬ自己くらいしかいないし、その上、私は別に、もともと自分に興味を持ってくれている人に、わざわざ自己を表現したいとも思えないから、どうも、進んで「自己表現」をしたいとは思えない気持ちがある。
(私がアイドルで、自己表現することで誰かが喜んでくれるのなら良いのだけれど、残念ながら私はアイドルではないので…。)
以前noteにも少し書いたけれど、芸術を通して表現されるべきは、自己の側ではなくて、あくまで世界の側であるような気がしている。
そもそも、表現されるべき単一の「自己」という想定が、私には怪しいと言うか、私は大学のゼミでの自己と、家の中での自己と、好きな人の前での自己は、大きく違うと思っているから、そこに共通点を見出すことは、無理じゃないかと思ってしまう。
(おそらく、同じ身体を持っているということくらいしか、自己の同一性を保証してくれるものはないと思う。)
ただ、表現されるのが世界だからといって、それを表現するのが他ならぬその人であることに意味がないかと言われると、実はそうではなくて、そもそも世界の見方は人によってかなり違うので、表現される世界は、ほかならぬその人にしか描けない世界なんじゃないだろうか。
(同じ絵を見て、それがウサギに見えたり、アヒルに見えたりすることは、端的にそのことを示している)
だとしたら、作品は、たんなる世界のコピーではないだろうし、ましてや自己の表現だけでもないだろう。
セザンヌの「サントヴィクトワール山」を見て、山を描いた絵だと言ってしまうのは、あまりにも、絵と世界をべったりくっつけている見方で、ここに描かれているのは、たんなる山ではなくて、「セザンヌのサントヴィクトワール山」に他ならないのだと思う。
メルロ=ポンティが「目と精神」で言っているのは、そういう、自身の独我的な世界を、他者に彷徨わせることができるのが、芸術家なのだ、ということのように見える。
(そう言う風に言うと、セザンヌは、自身の世界に、見るものを誘うことをしている)
(それを世界観と言ってしまうのは簡単だし、部分的にはそうなのだけれども、世界観という言葉は要注意で、それは多くの場合、空想された世界のあり方や作品のバックグラウンドなどしか指していないように思う。ここで言いたいのは、そういうことではなくて、空想されていない、そのまま知覚されたナマの世界のことを言っている。私たちは、それぞれ違うナマの世界を、見ている)
これは別に気取ったことを言っているわけではなくて、最も単純に言えば、目が身体に埋め込まれている限り、身体の裏側を見ることはできないということでも、あると思う。(ただ、目の物理的位置の話だけでも、もちろんないのだけれども。)
そう考えると、作品は、自己と世界のあわいにあるような気がしていて(この場合の世界とは、まだ誰にも見られる以前の世界のことです)、そういう、まさに世界が、自己の世界として生まれ出る、その瞬間を捉えた作品を、私は見たり、作ったりしたいです。