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Pre: 生活とともにあるそれとして

この数ヶ月は、芸術からすこし遠ざかってしまっていた。

いつも通り、演劇を観に行ったり、小説を読んだりするくらいはしているのだけれども、自分自身が作り手としては活動していなかったかもしれない。
それは、コロナで自分の公演が中止になって、にもかかわらずオリンピックは開催される時世に嫌気が差したからだったり、単に論文執筆で忙しかったりしたからである。

ただ、芸術から少し距離ができてしまった一番大きな理由は、いろいろな事情で、向こう2年ほどは「プロ」としては芸術の仕事に関わることができないということが、ある。


「プロ」として数年は活動できないとしたら、自分にとって芸術とは何だろうか。

「プロ」、「アマチュア」。
その線引きは、案外、むずかしい。

わたしのいる小劇場の界隈だと、「プロ」と「アマチュア」の境界線は曖昧である。
演劇の仕事だけで食べていける人はごく一部な一方で、演劇と関連した仕事は、わりとあるようである。たとえば、チケットの予約管理や劇場管理などで、アルバイトくらいの収入を手に入れることは、それほど難しいことではないだろう。もちろん、それが芸術活動なのかどうか、私にはわからないが・・(芸術活動かもしれないし、そうでないかもしれない)。

「プロ」であることは、たしかに、作品の質が一定水準以上であることを担保しているように思う。
ただ、自分が「プロ」であることにやたら拘っている職業芸術家たちに対して、嫌気が差すことがしばしばあるのも事実である。彼らからすれば、芸術だけで食べていけない人たちは、あるいは、芸術でお金をもらっているわけではない人たちは、作品の質が劣っているということになるのだろうか。


ヘンリーターガー。

誰にも見られることなく、1万5000頁以上の絵を描き続けた、掃除夫であり、芸術家である。彼の絵は、生前、誰にも見られることはなく、死後はじめて発見された。だから当然、だれも彼の絵に代金を支払ったことはないだろう。少なくとも、彼は「プロ」ではないことになる。

もし、「プロ」であることが、芸術の質と結びついているのだとしたら、ヘンリーターガーの絵は、有名なYoutuberの描いた絵よりも劣っているということになる。Youtuberは、それだけで稼ぐことができているのだから。時として、多くの人に希望を与えることすら、できているのだから。
誰にも知られることなく死んだ彼の絵は、インフルエンサーの作った動画よりも、劣っているのだろうか。

「私はプロだから」という言葉に潜在する高慢。
プロであるかどうかは、芸術家の本質とは無関係である。
「プロかアマチュアか」という軸に乗っかってしまった瞬間、資本主義の精神はただちに身体化され、きみのなかの芸術は死ぬだろう。


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マックスウェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で指摘しているように、「天職・使命(Beruf)」という概念は、資本主義を生み出す種の一つだった。

職業芸術家たちが、芸術家であることを自身の「天職」、神から与えられた才能ゆえに、自分が芸術家たりえている、と思うならば、その芸術家は、資本主義とその根を同じくしている。
「プロフェッショナル」の「プロ」は、「プロテスタンティズム」の「プロ」だろうか?(これは冗談である)

作品で新自由主義に対する外在的批判を展開しながら、芸術家であることを「天職」だと思っている職業芸術家は、たぶん、救われることはない。


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芸術なき生活を営んでいると、次第に、生活が効率化されてくることに気づく。
脳が効率よく動くために、いかに食事と睡眠を取るべきか。AppleWatchを買って睡眠のトラッキングをするべきか。マインドフルネスをして集中して仕事に臨むことができるようにするべきか。

効率よく働くためのモノを買うために、効率よく働くという、効率化の身体化。

どうせ、出来の良い歯車にはなれないのだから、もっと時間を無駄に浪費しなければならないのに。救いは、浪費の先にあるのに。

「わたし」は「わたし」を助ける為に、わたしたちは助けられる為に生まれて来た、わたしたちには救われる権利がある、その為の習慣、助けになる習慣をわたしたちは一生をかけて身につけるべきなのだ。
(山下澄人 「FICTION9 助けになる習慣」)


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農民芸術の産者

……われらのなかで芸術家とはどういふことを意味するか……

職業芸術家は一度亡びねばならぬ
誰人もみな芸術家たる感受をなせ
個性の優れる方面に於て各々止むなき表現をなせ
然もめいめいそのときどきの芸術家である
創作自ら湧き起り止むなきときは行為は自づと集中される
そのとき恐らく人々はその生活を保証するだらう
創作止めば彼はふたたび土に起つ
ここには多くの解放された天才がある
個性の異る幾億の天才も併び立つべく斯て地面も天となる
(宮沢賢治『農民芸術概論綱要』)


自身がアートワールドという差異化ゲームのプレイヤーであることに盲目的な職業芸術家たちは、宮沢賢治が言うように、やはり、一度滅んでしまった方がいいように思う。
ただ、宮沢賢治がここで言わんとしていることは、単に、農民も芸術するべきであるということではない。ましてや、市民も芸術的態度を身につけよということでも、ない。(それは、職業芸術家の高慢ではないだろうか。)
そうではなく、そもそも、芸術における[プロ/アマチュア]という分業を当たり前のものとする態度を、自分たちだけが真なる芸術を作ることができるという態度、逆に芸術は自分たちには作ることができないという態度、それを、ここで批判しているのである。


もし、芸術家が市民を啓蒙するのであれば、その芸術家は死ぬだろう。
生きることとともにあるそれとしてだけ、そこに芸術があるのだ。

芸術家も、市民も、ないのだ。
私たちはみな、小さな芸術家である。

芸術が、見られるためだけにあるならば、その行き先は暗い。


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昨年の12月、私は、兵庫県の豊岡市で、大道芸人の知念大地の手伝いをしていた。彼は、真冬の早朝、生きているひとは誰もいない森や海で、着物一枚で踊る。凍える私にコートを貸してくださった。

芸術のための芸術は少年期に現はれ青年期後に潜在する
人生のための芸術は青年期にあり 成年以後に潜在する
芸術としての人生は老年期中に完成する
(宮沢賢治『農民芸術概論綱要』)

今日も、森や海で、ひとり、踊っているのだろう。


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救いがあるとしたら、そのような、生きることとともにある芸術、それだけのような気が、最近はしています。
私たちは、たとえ「プロ」と呼ばれることに甘んじたとしても、自分が「プロ」であるために芸術をするようになってはいけないと、やはり、ぼんやり思うのです。ちいさな芸術とともに、たくさんの時間を無駄にしながら生きようと思っています。




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みなと
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