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「ジョーが来た夜――おすすめおでんに酔いしれる」

夕方、みの太家の暖簾がくぐられ、木製の引き戸が音を立てて開いた。入ってきたのは、真っ白なタンクトップにジーンズ、そして肩には少し汚れたジャケットをかけた男。鋭い目つきでカウンターを一瞥すると、ゆっくりと腰を下ろした。


「いらっしゃい!」  

赤いセーターにカーキ色のロングコート、そしてボロボロのハンチング帽をかぶった店主・みのるさんが、しゃがれた声で声をかける。  


男は黙ったままジャケットを脱ぎ、カウンターの上に無造作に置いた。そして低い声で「酒を…」と一言。  


隣に座っていた常連のサブローが怪訝そうにその男を見て、「あんた、どこかで見たことあるような気がするけど…?」と話しかけた。すると男は、ニヤリと笑いながら「俺の名前は槍吹錠(ヤリフキジョー)。矢吹ジョーの魂を受け継ぐ男さ」と言い放った。


店内に一瞬の静寂が訪れる。ミツルが吹き出しそうになるのを堪え、「いやいや、矢吹ジョーって、漫画のキャラだよな?」と突っ込むが、槍吹錠は真顔で「俺は本物のジョーなんだ」と言い切る。その自信満々な様子に、みのるさんはニヤリと笑い、「ま、そういう熱い奴は嫌いじゃないよ」と返した。


すると槍吹錠がみのるさんを指差し、「おっつぁん、あんたもただ者じゃねえな」と言い出した。みのるさんは少し戸惑いながら「俺が『おっつぁん』か?まあ、好きに呼べばいいけどよ」と肩をすくめた。


「今日はおでんがいい具合に煮えてるぞ」と、おっつぁんがカウンター越しに鍋の蓋を開けると、店内に出汁のいい香りが広がる。大根、卵、こんにゃく、ちくわ、牛すじ――具材がたっぷり詰まった鍋を見て、槍吹錠も思わず視線を奪われた。  


おっつぁんが手際よく盛り付けたおでんを目の前に差し出すと、「寒い夜にはこれが一番だ」とにっこり。槍吹錠は無言で箸を取り、大根を一口食べた。  


「……うまい」  

ポツリとつぶやくその顔には、さっきまでの鋭さが消え、少し柔らかい表情が浮かんでいる。続けて卵、こんにゃく、と次々に食べ進め、「この出汁はまさに闘志が染み渡る味だ」とまたもや妙な表現を口にする。  


「闘志って…おでんの感想にしては大げさだろ」とミツルが突っ込むと、槍吹錠は眉をひそめ、「おでんは戦いだ」と真剣な表情で返した。その熱量に、店内は再び笑いに包まれる。  


さらに酔いが回ると、槍吹錠は突然立ち上がり、「さあ、勝負だ!」と拳を振り上げる。どうやら、カウンター越しの鍋の湯気をリングの煙と勘違いしたらしい。おっつぁんが「おいおい、鍋に突っ込むんじゃねえぞ!」と苦笑いしながらなだめると、槍吹錠は素直に座り直したものの、「俺にはまだ戦う理由がある」と妙なことをつぶやく。


結局、その日の槍吹錠は、隣のサブローとミツルにおでんを奢られる形で、満足そうに店を後にした。


扉の前で立ち止まり、赤いセーターの袖を直すおっつぁんに向かって、槍吹錠は振り返り、静かにこう言い放った。  

「燃えたよ、燃え尽きた。真っ白によ。」  


その姿は、どこか哀愁を漂わせていて、店内にいた全員が言葉を失った。扉が閉まると、ミツルが「おっつぁん、あの人また来るかな?」と尋ねると、おっつぁんはハンチング帽を軽く叩きながら「来るだろうよ。こういうのが一番の常連になるもんさ」と笑った。

こうして、槍吹錠の奇妙な夜はみの太家の一夜の語り草となり、また新たな物語の予感を残して幕を閉じた。

本日のメニュー紹介
「おでん」680
家庭の味を意識した、寒い夜にほっとする一品

葛飾区鎌倉-もうひとつの我が家-
居酒屋・ご飯処 みの太家
https://minotaya.jimdofree.com/

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