ある労働運動指導者の遺言 足立実の『ひと言』第66回 「国境を越えた無名の人々の共闘 韓国スミダ争議」 1990年7月10日
韓国スミダ労組の鄭委員長ら四人は、「死んで灰になって帰ることはあっても敗けて故国に帰ることはできない」といったが、彼女らは生きて勝利の旗をかかげて帰って行った。
この闘争から学んだことは、
第一に、悪質な渡り鳥資本家を、日本に追いかけて来て責任を取らせる気迫。二度のハンスト、六十一日の坐りこみ、馬山工場の籠城などに示された韓国スミダ労組の敢然と闘う姿勢である。
これが勝利の原動力であった。
第二に、支援者が団結し、持ち味を十分に発揮して貢献したことである。
大倉神父はその献身的行動で支援者の中心的役割をはたされた。進出企業問題を考える会は精力的に参謀の役割を担った。仁科さんは黙々と当該と支援の意志・疎通を保障した。社前にはいつも東水労の山浦さんの明るい声と、常連の顔があった。嘉山さんは太陽神戸三井銀行要請行動を勇猛果敢に指揮した。 地域の労働者が連日はりついて、目立たないが極めて重要な支援をした。まだまだあるが、 紙数が足りないから割愛する。
社前に集まった無名の人々の間に友情が芽生え、韓国スミダ労組のために力をあわせて奮闘した。
これは今後の日本の運動に、教訓としても人間関係としても生かさなければならない財産だと思う。
第三に、四月以降は本格的な大衆闘争になった。清掃労組はじめ地域の組合も参加して現闘本部が結成され、毎日作戦会議を開き、社前闘争と泊りこみ体制、地域社内ビラ、デモ、全国集会、太神三井銀行団交などをくりひろげた。
金町一~二丁目の三一五人の署名は、葛飾区長の社長に対する要請書になり、スミダ電機のほぼ全社員一二七人の署名とともに社長に痛打を与えた。
勝利は大衆闘争でかちとられた。
第四に、国会、社会党、通産省、葛飾区長、労政事務所、出資金融機関、マスコミをはじめあらゆる関係方面に働きかけ、八幡一郎を社会的孤立に追い込むことに成功した。
以上が勝利の条件だったと思う。
こういう闘争は誰も初めての経験だから部分的誤りや失敗もあったが、成果はそれをはるかに上回った。
東部労組は支援の一部分として勝利に貢献できた。
とくに山田さんは定期券を買って日参し、娘たちからオモニ(お母さん)と親しまれた。松岡執行委員は連続支援のなかで病に倒れた。
東部労組現闘をはじめ、泊りこみに、社前闘争に、デモに、地域ビラに、会社役員追及行動に、銀行要請に、社前メー デーにと奮闘したすべてのみなさん。ご苦労さまでした。(足立実)
(画像は来日した韓国スミダ労組の4人の組合員)
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葛飾区金町のスミダ電気は、安い労働力を求めて、工場を福島、韓国へと移し、労働運動が高まると今度は中国に移るという「渡り鳥企業」で、1989年10月韓国スミダの450人全員の解雇を、葛飾からFAXで現地に通告した。韓国スミダ労組の鄭賢淑(チョン・ヒョンスク)委員長ら四人の女性はカトリック教会の大倉一美神父をたよって来日し、「進出企業問題を考える会」を中心に「韓国スミダ労組に連帯する会」がつくられた。
彼女らはスミダ電機に交渉を申し入れたが拒否され、会社の連合全国一般分会も支援を拒否した。
彼女らは各省庁、国会議員、連合、ユーザー、取引銀行などに訴え、4月14日から社前でハンストに突入した。
東水労はじめ地域の労組で24時間の防衛・支援体制がつくられ、現地闘争本部に筆者も入った。
東部労組は支援隊を中心に泊込み防衛、役員宅行動やビラいれ、地域署名、デモなど連日連夜支援し、組合員の山田信子さんは彼女らから「オモニ」(お母さん)と親しまれた。
韓国スミダ労組は亀戸労政に団交斡旋を申請し、所長がきたが会社は拒否した。
周辺住民315人が「早期解決を求める」署名を会社にだした。社長夫人は慌てて菓子折を配ってあるいた。
小日向葛飾区長は「早期円満解決」を八幡社長に申し入れた。
4月24日から連日デモが始まり、30日全国から800人が集まり会社をゆるがした。
日産の嘉山氏の指揮で太神三井銀行を徹底的に攻めた。
5月1日は、社前で韓国式メーデー集会を開催した。
会社内部に厭戦気分が広まり、役員をのぞくほとんど全員が署名して、社長に解決を請願した。
6月8日、会社はついに韓国スミダ労組に謝罪し、一人あたり5ヵ月分の生存権対策費を支払った。
彼女らは勝利の栄光を背負って帰国していった。
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このコラムは厳密にいうと「ひと言」ではない。
韓国スミダ闘争の勝利的解決を受けて、機関紙に掲載された筆者のフルネーム入りの署名コラムであり、闘争の総括文である。
しかし、ここでは「ひと言」として扱うこととする。
筆者も現地闘争本部に入り支援の先頭に立っていたので臨場感がひしひしと伝わる。
特筆すべきなのは、当該の「悪質な渡り鳥資本家を、日本に追いかけて来て責任を取らせる気迫。二度のハンスト、六十一日の坐りこみ、馬山工場の籠城などに示された韓国スミダ労組の敢然と闘う姿勢である」。
この闘争は筆者の所属組合の東部労組の組合員、そして東京東部地域の労組・市民が一体となって「よってたかって」闘うことにより勝利を勝ち取り、日韓労働者の国際連帯を深めた歴史的闘争である。
参考
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【鄭 賢淑(チョン・ヒョンスク)】https://kotobank.jp/word/%E3%83%81%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%92%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%82%AF-2104788
Chong Hyon-suk
元韓国スミダ電機労組委員長
経歴地元の商業高校を卒業後、1986年コイルメーカーの韓国スミダ電機(馬山市)入社。’89年8月同社前労組執行部から委員長に推薦される。同年10月突然の解雇通知に対して、工場を占拠し、交渉のため来日。206日間の来日闘争の末、親会社のスミダ電機と合意した。
2011年、その解雇撤回の闘いとその後の20年を追った映画ドキュメンタリー映画「海を越えた初恋―1989、スミダの記録」(朴貞淑監督)が公開された。