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映画『生きてるだけで、愛。』を、私は絶対に忘れない

自分ってなんなんだと半ば投げやりに考えていた私に、じんわり染み込んできた。

映画『生きてるだけで、愛。』公式サイト


関根光才監督が本谷有希子さんの同名小説を映画化した作品。主人公の寧子と3年間同棲する津奈木は、今回の映画化で、監督自らキャラクターを深堀りして脚本に書かれたそう。

寧子は、躁鬱に苦しみながら「愛することにも愛されることにも不器用で関係が成就する前に自ら壊してしまうような女」(公式サイト イントロダクションより)。そして津奈木は、「他人と距離を保つことで傷つきも傷つけもしないけれどすべてをあきらめているような男」(同)。

公式サイトのイントロダクションにはこう続く。
「完全に破綻して見える二人が一緒にいるのは、歪な自分を受けとめてくれる相手がお互いに必要だったから。その内側に透けて見えるのは、私という存在を誰かにわかって欲しい、誰かとつながりたいという強烈な叫びだ。それを愛と呼ぶならば、まず自分で自分を受けとめなければならない。生きている限り、自分と別れることはできないのなら、せめて一瞬でも分かり合えたと思える瞬間を信じたい。だからどうかありのまま愛することを許してほしい、「あなた」を、そして「私」自身を」。

津奈木の視点・キャラクターを浮かび上がらせたことで、寧子のキャラクターも立った。一見、正反対に思える2人の人間の、根底に通ずる叫びが聞こえてくるようだった。その叫びを聞いて、私が感じたこと。

手がつけられないほど激しい自分の感情が、まさしく私なのではないか

どうにかして抑えたい、どうにかして持ち上げたい、なんで思い通りにコントロールできないのか。自分で自分に疲弊していた私は、この映画を観て目が覚めるような思いがした。人間として生まれたがゆえに背負う、感情という機能。反射的に湧いてくる自分の衝動や感情にうんざりしていた最中に、私は、この映画に出会ってしまった。

スクリーン越しの2人を観て、自然に生まれる自分の感情の方がまさしく私なのではないかと気づいた。これは衝撃的なことだった。今はまだその気づきに驚く以上のことはできないけれど、私の中からなにかを引っ張り出してもらったような感覚がしっかりと残っている。これだと言い当てられないけれど確かに私の中にも存在しているもの。

映画が、映画たるがゆえに背負う運命

映像。時間に伴って流れていく運命にあるそれを。捉えられない、掴むことができない、触れられないことが、これほどまでにもどかしいと思ったことはなかった。この映画に、映像、映画の本質というのを突きつけられた感がする。その限界という本質。限界ゆえの本質。映画が、映画たるがゆえに背負う運命を、こんなにも憎く思ったことは初めての経験だった。

映画館で感じた全部が、記憶という確かで不確かなものになっていくことを前に、私は無力だ。

***

寧子がスーパーの卵売り場まで来てから卵に手を伸ばすまでの時間や、津奈木が屋上で寧子を抱き締めるあの腕の力、カフェバーでまかないを食べている時の会話の間。

久しぶりの買い物で、陳列棚を目の前にした時にぶち当たり苛立つ、認めたくないほどの判断力の鈍り。目の前の人を抱き締めながら、まるで表に出ていない自分を強く抱き締めているかのような感覚。その場がしんとなった瞬間、いきなり襲いかかってくる異常なまでの罪悪感と恐怖の波。

スクリーンを前にして、私はそれを痛いくらいに感じた。それらが意図して組み込まれていたかどうかは、もはやどうでもいい。

この映画に出会えてよかった。
この目でこの身体で、観ることが出来て本当によかった。

判断力と一緒に鈍った記憶力しかないけれど、私は絶対にこの映画を忘れない。

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