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見牛:対象になりきって観察する

無我は皆苦、無常と並んで仏教の根本教理で、以下の四つに要約されます。

諸行無常(しよぎようむじょう)・・・・・・すべてはうつり変わるもの

一切皆苦(いっさいかいく)・・・・人生は思い通りにならない
諸法無我(しょほうむが)・・・・すべては繋がりの中で変化している

涅槃寂静(ねはんじゃくじよう)・・・死んだ後の世界。静かで何もない。

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これら教理の基本を一般に四法印あるいは三法印と呼んでいます。三法印の場合は、四つの内から「一切皆苦(いつさいかいく)」を外します。

無我とは、非我とも言われ、あらゆる事物は現象として生成しているだけであって、それ自体を根拠づける不変的な実体は存在しないという意味の仏教用語です。

私は存在していないのでしょうか?
「諸法無我」とは、どういう意味なのでしょう?

全てのものごとは影響を及ぼし合う因果関係によって成り立っていて、他と関係なしに独立して存在するものなどない、という真理です。

自分のいのちも、自分の財産も、全て自分のもののように思いますが、実はそうではありません。

世の中のあらゆるものは、全てがお互いに影響を与え合って存在しています。

自然環境と同じように、絶妙なバランスのうえに成り立っているのです。

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自分という存在すら主体的な自己として実在するものではなく、五識と言われる眼(げん)・耳(に)・鼻(び)・舌(ぜつ)・身(しん)の前五識と第六識である意識、さらに深層心理と言われる根本心と自我執着心の合計八識からなる身体ネットワークの相互依存の関係のなかで”生かされている”存在なのです。

自分とは思い込みでしかなく、いまこここの瞬間にある自分とは、「諸法無我」すべては繋がりの中で変化している対象のことなのです。

つまり読書しているなら読書する行為そのものが自分であり、スポーツしているならスポーツする行為そのものが自分なのです。
このように、自分とはすべては繋がりの中で変化している対象そのものなのです。

逃げた

「十牛図」三番目の絵「見牛」とは、牛の尻尾が見えた状態で、牛の姿の全部が見えたわけではなく、牛(=本当の自分)がなにかに気づいた状態と言えます。

牛(=本当の自分)を見たのは、なりきって、なりきって、なりきって観察することを心がけている八識なのです。


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