十牛図#3 見牛
廓庵禅師の開発された「十牛図(じゅうぎゅうず)」は、禅の教えで、悟りに至るまでを10段階のプロセスで表現したものです。
以下の10の項目から成り立っています。
尋牛(じんぎゅう)
見跡(けんせき)
見牛(けんぎゅう)
得牛(とくぎゅう)
牧牛(ぼくぎゅう)
騎牛帰家(きぎゅうきか)
忘牛存人(ぼうぎゅうぞんにん)
人牛倶忘(じんぎゅうぐぼう)
返本還源(へんぽんげんげん)
入鄽垂手(にってんすいしゅ)
「十牛図」三番目の絵は「見牛(けんぎゅう)」です
牧人は、とうとう探し求めている牛を発見しました。
牛は前方の岩の向こうに尻尾を出して隠れています。
牛が驚いて逃げ出さないように、牧人は足をしのばせて牛に近づいていきます。
「見牛(けんぎゅう)」は、「十牛図」を学ぶ人に対し、「なにが牛を見るのか」という問いを投げかけています。
「なにが牛を見るのか」って、日本語として、なにかへんですよね。
目で見るのでしょうか?心で見るのでしょうか?
あるいは両方で見るのでしょうか?
答えはこうです。
身体(目)と心に分けるのではなく、統一された状態で、「いま、ここ、この瞬間」に「なりきって」見るのです。
つまり無我の状態です。
とても奇異に感じるかもしれませんが、実際に自分が懸命に牛を探し求めていたら、自分のことは忘れてしまいます。
もし牛を探すことに集中できずに、自分はこれからどうなるのかと不安になっていたら、自分のことで頭がいっぱいになります。
無我の状態では、子どものように自分は忘れてしまっています。
「二諦(にたい)」といって「世俗諦(せぞくたい)」と「勝義諦(しょうぎたい)」があります。
世俗諦(せぞくたい)は俗諦とも言われ、言葉が通用する表面的な真理を指します。
勝義諦(しょうぎたい)は真諦とも呼ばれ、言葉で語れない真理のことです。
人は言葉で考え、説明しようとしますが、コミュニケーションが難しいだけで、実際には言葉より先に真実を掴んでいるものです。
つまり空(くう)の世界・・・「あるようでもなく、ないようでもない」分けることができない世界にいるのです。
分別できない世界とは、ああだ、こうだと考えることのない世界です。
牛を見つけた牧人になったつもりで捉えてみましょう。
「ああ、牛が元気そうでいてくれてありがたい。」
生命の仕組みに感謝するばかりではないでしょうか。