S.ジョブズ 「十牛図」を歩いた56年(10)〜入鄽垂手
「十牛図」10枚目の絵は最後の絵「入鄽垂手(にってんすいしゅ)」です。
「入鄽垂手(にってんすいしゅ)」;これまでの9枚と全く違うので驚かれるでしょう。
牛を追いかけていた牧人の体は、なぜか、太って大きくなっています。
しかも、だらしなく見えます。手には禁止されている酒を持っているようです。
「入鄽垂手」で、牧人はなぜ、こんなに大きくなり、道行く人と楽しく会話をしているのでしょう?「入鄽垂手」の問いは「人が往来する場所で「生きる」とはなにか?」です。
一緒に答えを見つけましょう!
「入鄽垂手」には「十牛図」の心がつまっています。
「十牛図」は、仏教の修行つまり出家した人だけが幸せになるのではなく、すべての人が幸せになることをめざしています。
善もなく悪もない。対立を排除してしまったところに、新しい自分(=本性)がいます。
「入鄽垂手」に描かれた牧人(=本性)に出会うには一行三昧を理解することより、触れることが重要だと「入鄽垂手」に至るプロセスが語っています。
一行三昧とは、一つの修行法に決めて、それに専念して励むこと。
「一行」は、一事に専念すること。
「三昧」は、精神を集中し、心を安定させた状態です。
それでは「十牛図」の最後の絵「入鄽垂手(にってんすいしゅ)」を見ていきましょう。
「入鄽垂手」に描かれている布袋(ほてい)さんような人は、牛を追いかけていた牧人です。
すっかり風体が変わっています。なぜでしょう。
布袋さんは、七福神(しちふくじん)の一人ですが、元々は中国の唐の時代の禅僧がモデルです。
布袋さんが持っている大きな袋には、人からもらったものが入っていて、人に会うとそれを取り出してあげていたといいます。何をもらい何をあげていたと思いますか?
「入鄽垂手(にってんすいしゅ)」の「鄽」とは人々が住む町のこと。
「垂手」とは、人々を教え導き、救いの手をさしのべることをいいます。
町にやってきて、人々と交わるということ。
真の自分とひとつになった牧人は、人が往来する町で、人々と交わります。
身なりにこだわることもなく、外見を気にせず、仏教が禁じている酒を飲んでいます。
酒を酌み交わしながら相手が楽しそうなら、笑い転げ、悲しんでいたなら一緒に悲しみます。
笑って泣いたら、再び山に帰っていきます。
出会った人の考えや行いに影響を与えると同時に、さらに知らないことも体験していきます。
交流することで同時に自分自身の成長にもつながっています。
人々に貢献することは、自分のためでもあるのです。
つまり自利利他です。
「自利利他」とは自らの悟りのために修行し努力することが、自然と他の人の救済のために尽くすことにつながっているということです。
コロナウイルスで話題になる「マスク」が典型的です。
自分を守るために使っているつもりが、他者を守るための行動です。
裏返すと他者に迷惑をかけないようにしている行為が、自分を守る行動になっています。(=利他主義)
利他主義は人が往来する場所で「生きる」上で欠かせない考え方、持続可能な社会の基礎的な考え方ですね。
つまり自利利他は、典型的な「幸せのかたち」なのです。
「入鄽垂手」に描かれた布袋さんのような牧人は、良寛さんを連想させます。
良寛さんは、清貧の中で生けるものへの愛を失わず、子供と戯れ、友と語り、女人を慈しみ、和歌や漢詩を詠み、書に優れた托鉢僧でした。
私たちの暮らしは、親しい人、見知らぬ人との交わりで成り立っています。
縁起を背負ったひとりひとりとの交わりは、同時に四苦八苦の原因になっています。
その四苦八苦の中に幸せがあるといえます。
牧人が、酒を酌み交わしている相手は、それぞれに四苦八苦ですが、分別せずに、共感、共有することに幸せがあることを「大きな体」が表現しています。
これは良いもの、悪いものと分け隔てるのではなく、全部受け入れていく。
もし、自身に分け隔てる習慣があれば、いくら度量の大きい人でも壊れてしまいます。
全部受け入れても、壊れないのは気に留めないからです。
幸せになること。幸せとは「これは幸せ」「これは不幸」「自分」「他人」と、分け隔てないこと。
幸せも、不幸せも、言葉が作った幻想でしかないのです。
悟りとは、気づきを行動にした状態です。
十牛図のクライマックス「入鄽垂手」では、悟りを、ただ「あるがまま」が在るだけなのです。
四苦八苦とは、次の4つと熟語「生老病死」と4つのことです。
生・・・・生きていること自体、肉体的精神的苦痛が伴う。
老・・・・老いていくこと。体力、気力など全てが衰退していき自由が利かなくなる。
病・・・・様々な病気があり、痛みや苦しみに悩まされる。
死・・・・死ぬことへの恐怖、その先の不安。
愛別離苦(あいべつりく) ・・・・愛する者と別離すること
怨憎会苦(おんぞうえく) ・・・・怨み憎んでいる者に会うこと
求不得苦(ぐふとくく)・・・・求める物が得られないこと
五蘊盛苦(ごうんじょうく)
・・・・五蘊(人間の肉体と精神)が思うがままにならないこと
仏教ではこの世の中は一切皆苦(すべてのものは苦しみである)といいます。
仏教でいう「苦」とは、「自分の思い通りにならない」ということを意味しています。
思い通りにならないことに執着することで、煩悩はどんどん増え、深まり、苦痛は深層心理にまで溜まっていきます。
何度も言ってる末那識。阿頼耶識ですね。
そのもとは1.5歳までの身体で覚えた感情的な記憶です。
感情的な記憶が同じような体験を繰り返し、ますます強固な感情を身につけていき人生脚本を揺るぎのないものにしていきます。
末那識。阿頼耶識の扉を開き、自分を解放するのが仏教の目的です。
気づきがあって悟ります。
気づきは言葉でなく感覚で本来の自分を知ること。
悟りは気づきを実践することです。
自分を探している方には、自分のイメージがあり、現実の自分との違いに攻撃を受けています。
自分の中にカッコいい自分のイメージがあり、そのカッコいい自分から攻撃されているのです。
「十牛図」最後の「入鄽垂手(にってんすいしゅ)」で描かれている牧人の姿は牛を家に連れて帰る牧人の姿と全然違いますよね。
一見するとだらしないのない姿ですが、これが真の自分です。
いまでは気にせず人と交流しています。
カッコいい自分から攻撃されているとは、自分はこんなにすごいという「慢」の煩悩から攻撃です。
人間の身体とは不思議なのもので、もともと自分を守るようにできていたシステムが、いまは自分を痛めつけているのです。その代表が「ストレス」です。
ここでは詳しい説明を省きますが、(こちらに説明があります)自分を守るためのホルモンからの攻撃です。
ストレスからの攻撃を、さらに強い刺激でストレスを撃退しようとします。
そうする負の循環にはまり込んで、ストレスはますます強くなり、やる気が出なくなり、部屋は「ゴミ部屋」になります。
部屋に帰るたびに将来が不安になります。
つまり「本当の自分はこんなものではない」という「向上心という名の慢心」から始まっています。
身体と同じように精神も精神からの攻撃を受けているのです。
牧人が真の自分を発見したように、カッコいい自分はすでに自分の中にいるのです。
すでに自分の中にいることを知るのは簡単ではありません。
疑問のあることに気づくことができれば、閉じられた世界が開きます。
見たことのない世界(返本還源)に触れたとき、自分の本性があることを感じます。
食欲がないのに食べても健康に悪いように、やる気がないのに勉強しても記憶力が損なわれ、記憶したことは保存されない。
レオナルド・ダ・ヴィンチ
十牛図・最後の絵「入鄽垂手(にってんすいしゅ)」と10のプロセスには仏教(仏道)のエッセンスが凝縮されているといっていいでしょう。
一切皆苦を矛盾することなく受容して、共に生きていけるなら、エンドレスにワンダフルが楽しい。
「十牛図」の境地に達する状態は水に似ています。
自然災害で泥にまみれた川の映像を目にしますが、やがて清浄な水に戻ります。
汚れても汚れない、清浄な水が本来の心です。
この本来の心(=本性)を知ることが「気づき」です
Apple Park Visitor Centerと名付けられたアップル本社ビルは、ガレージから
はじまったのです。ダビンチの言葉「食欲がないのに食べても健康に悪いように、やる気がないのに勉強しても記憶力が損なわれ、記憶したことは保存されない。」を思い起こしながら「抜苦与楽」を諸行無常の風に吹かれながら考えてみましょう
「十牛図」に綴られた10枚の絵は、どこから来てどこへ行くのか?
そこに疑問を持った者が何を知るのか?根源的な本来の智慧を与えてくれています。
S・ジョブズ「十牛図」を歩いた56年(1)
S・ジョブズ 「十牛図」を歩いた56年(2)
S・ジョブズ 「十牛図」を歩いた56年(3)
S・ジョブズ 「十牛図」を歩いた56年 (10)