あるべきようわ。
選挙も終わって 各政党の議員は京都、高山寺を興した明恵上人が残した「阿留辺畿夜宇和(あるべきようわ)」という言葉に打たれてみたらいいと思います。 もちろん、国民もね。
「阿留辺畿夜宇和(あるべきようわ)」は、その時、その場において「どのようにあるべきか」を自身に問いかけ、その答えに沿うように生きようという教えです。
「あるべきようわ」
釈迦の言葉「諸行無常」 そのままに、映画『Aナと雪の女王』の公開は2013年、 時間の流れの早いこと。映画の影響もありブームは遠い日の記憶になりましたが、クリスマスを控えて「ありのまま」という言葉が蘇る今日この頃です。
ありのままに犯罪者
最近立て続けに起こる事件に「ありのまま」という言葉が言い訳のように大手を振って歩いている気がして釈然としません。
大阪地検トップの検事正だった2018年、酒に酔って抵抗できない女性に性的暴行を加えたとして、準強制性交等罪に問われた弁護士の事件。、
さらに天台宗の60代の男性僧侶から暴力やどう喝などを受けたとして、四国地方の尼僧が、天台宗務庁(大津市)に対し、男性僧侶らの僧籍の剥奪を求めて懲戒処分を申し立てた事件。
名古屋市立小学校の40代男性教諭が約1年半にわたり、部下の20代女性教諭に性行為やわいせつ画像の送信を強要。女性教諭から告発されていたが、男性教諭は市教委の調査に直接応じず、弁護士を立てて女性教諭と示談。市教委の処分を受けることなく自主退職したという卑劣極まる事件。
検事、僧侶・教師らが、自分を律することなく、あなたらしく、ありのままでに生きる姿がこの上なく見苦しいが、ついには欲望のまあ闇バイトという卑劣さ。
いまの日本は個人主義的な傾向が浸透して、未熟さを是認して努力を怠ったり、 自分を律することの出来ない場合の言い訳になっていたり、 本来の意味とはズレた解釈をして、都合良く使われていることがよくあります。
自分を律することのできない言い訳になっていたり、本来の意味とは大きくずれていても気にもされない。
そこで私が座右の銘にしている明恵(みょうえ)上人のあり方に触れてみたいと思う次第です。
明恵上人は、僧侶としてのあり方を問い直し、お釈迦様の純粋なる教えを追求した人です。 出しゃばることが嫌いであったため、あまり表には出ず 鎌倉仏教で有名な法然、親鸞、道元、栄西、一遍、日蓮は 教科書にも出てきて有名ですが、明恵はあまり知られていません。
ところが、法然のことを強く批判する本を出版したこともありましたが、その後も親しく交際を続けたという人物です。
明恵上人ってどんな人
そこで、私が座右の銘にしている鎌倉時代の僧侶、明恵(みょうえ)上人のあり方をご紹介したいと思います。
華厳宗中興の祖といわれる明恵上人は、承安3年(1173)和歌山県有田川町で生まれました。 9歳で両親を失った後、京都神護寺で仏道に専心。 幼き頃より釈迦のように捨て身を試みるなど、仏の道を究めようとする意思が強かったと伝わります。
明恵は、僧侶としてのあり方を問い直し、厳格にお釈迦様の純粋なる教えを追求した人です。
明恵は両親を早く亡くして仏門に入ったことから、釈尊(釈迦)を父と崇め、「仏眼仏母」の仏画を母と慕い続けた。また、自らの美貌が修行の妨げになることを気遣い、右耳を削ぎ落として「無耳法師」と名乗ったという過激な経歴の持ち主でもありました。彼の残した和歌からは、難解とされる華厳宗の「一即一切、一切即一」の境地が感じられる。
さらに、この「仏眼仏母」如来はよく密教などで信仰されていますが、この仏さまを自分の母親だと考えておりました。
この「仏眼仏母」如来は今、高山寺に残されている、2メートル足らずの非常に美しい仏の図像です。白い蓮華座に座っていますが、仏の体自身も真っ白で、また着ている衣も真っ白な、とても優美な美しい仏です。この仏を明恵は自分の母親と考えて、この仏を礼拝したり、いろいろな儀礼をしたりしていました。
明恵上人は表に出ること、出しゃばることを好まぬ気性から、有名な法然や親鸞、道元、栄西、一遍、日蓮らの陰に隠れた傾向があり、彼らほど有名ではありませんが、北条義時の子である泰時は、六波羅探題の在任中に、明恵が住職を務めていた高山寺へ何度も足を運び、その教えを受けていました。
栂尾明恵上人遺訓
明恵が、弟子たちに次のような言葉を残しています。無論、泰時にも話していたことでしょう。
「人は”阿留辺畿夜宇和(あるべきようわ)”と云う七文字を持(たも)つべきなり。 僧は僧のあるべき様、俗は俗のあるべき様なり。乃至、帝王は帝王のあるべき様、臣下は臣下のあるべき様なり。此のあるべき様を背く故に、一切悪しきなり。」(『栂尾明恵上人遺訓』より)
「阿留辺畿夜宇和」は、現代にもそのまま通用する言葉です。
「阿留辺畿夜宇和」は「あるべきようわ」と読みます。いわゆる万葉仮名です。
現代で言えば、ヤンキー用語の「ヨロシク=夜露死苦」のようなものです。 その七文字だけを万葉仮名にした理由は定かではありませんが、 強調したかったことには間違い無いでしょう。
「ありのままに」は、現状を受け入れ肯定しているのに対し「あるべきようわ」は、本来あるべき理想像を問いかけ「そのものらしさ」を大切にして道を進むことを教えています。
そうしないと、すべてが本質からかけ離れて、悪い方へ向かってしまうと警告しています。
若者言葉とテレビ言葉
たとえば「若者言葉」ってありますね、誰かが最初に使って広まる内に言葉の本質がどんどん変わっていくんですね。「かわいい」って言葉がその例です。若者が目上の人さらに高齢者に使っていますが、かわいいはペットなどに使う言葉だったはず。つまり見下しているのですが、使っている若者に悪意はありません。
闇バイトもそうでしょう。メディアはアルバイトで殺人をしてしまう文化を育てているのでしょうか。メディアが使っていいわけがありません。許されないことです。
「人は”阿留辺畿夜宇和(あるべきようわ)”と云う七文字を持(たも)つべきなり。(略)此のあるべき様を背く故に、一切悪しきなり。」が耳に痛いかどうか。
未来のためにできること
未来のためにできることってなんでしょう?
私は絶対に若者言葉は使いません。
未来の地球のための歩き方ってどう歩けばいいのでしょう?
お遍路するつもりで未来を歩いてみたら、万物に貢献できるかも知れません。