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自分ってなに?
自分ってなにと考えるとちょっと頭が痛いですね。
究極、自分とは言葉の上であるだけで、実体はありません。
下の図のように、これだけの縁起(因果)で出来上がっています。
すごい数とスケールですね。
しかも死んだら、構成も変わるので、これが自分と言える揺らぎのない自分はいなくて、いつも揺らいでいます。こうしている間にも細胞も増えたり減ったりしています。
自分だけではありません。スマホや椅子だっていくつもパーツでできていて、分解したらスマホでも椅子でもなくなります。
「あるべきものが、ない。ということが大切です。
すべては、こころが作ったもので、なにごとも実体がありません。
世の中にあるものは、すべては空であり、縁起(因果)によって成立していると仏教では説きます。
空と縁起は切り離せないセットなんですね。
どんな些細なことであれ、必ず何かしらの影響を与えています。関わったことが小さいほど、関わったことで、状態を大きく変化させてしまうことは想像できると思います。不確定原理と呼ばれる量子力学の基本です。
試験があるから、「試験に合格しなければいけない」と思うので執着が、苦しいのです。
試験がなければ、試験勉強から解放されるので楽しく勉強できます。
試験勉強ではない勉強をすれば楽しい。これが空の言わんとするとことです。空について「あるようでなく、ないようである」という言い回しは、自分のこころの在り方次第だということですね。
分け隔てするなかれという無分別智の教えも、空をスタート地点にした実践です。
勉強は勉強、なんでも同じという考えに立てば楽しくできます。オリンピックもプロ野球も高校野球もサッカーも同じと考えたら、有観客、無観客の問題も自然に解決します。違うと言うのは、それぞれの人のこころのあり方です。
観察する対象がなくなれば観察の意識はなくなる。裏返すと観察の意識をなくすと観察する対象もなくなります。
空と縁起は切り離せないといいましたが、慈悲・慈愛も空と縁起から切り離せません。
空・縁起・慈悲の関係は、無分別智の智慧です。
分別しない関係は、世界は自分、自分は世界という相互依存の関係を構築します。相互依存の関係からは共感が生まれやすくなります。そこから慈しみ憐れむ慈悲のこころが生まれます。
慈悲は最強、自分とは慈悲になるために生きる存在です。
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