わたしの履歴書(1)就職活動で転ぶ
膨らみ切ったバブルがはじける気配を見せ始めたころ、大学生活が終盤にさしかかりました。マスコミに憧れて学部を選び、知ったかぶりで「広告批評」など購読していたものの、学生時代に特に打ち込んだこともなし。「卒業後は働いて生きていかねば」という実感もないまま、なんとかなるさと呑気に過ごしていたものです。でも就職という言葉が周囲から聞こえ始め、さすがに気になり始めました。やはりマスコミがいいかなと思ってはみたものの、どうすればいいのか分かりません。そんな時、ある全国紙が主催する記者志望者向けセミナーがあると聞き、参加することにしたのです。
本試験の前に優秀な学生を囲いこもうという、早い話が青田刈りのセミナーです。大学3年生の秋か冬だったか、2日間の日程で、初日は模擬筆記試験、2日目は記者による講演会と立食パーティだったと記憶しています。新聞社の凋落著しい今も、そんなセミナーは行われているのでしょうか。
初日の模擬筆記試験の一般常識問題は散々な出来でしたが、小論文には手ごたえを感じ、続く2日目の講演会は、とにかくおもしろいものでした。新聞社を代表する現役記者たちが、世界情勢や取材の裏話などを惜しげもなく話してくれます。その後のパーティは、今では考えられない紫煙渦巻く会場で行われ、それもこれもすべて含め「カッコいい!これぞマスコミ!こんな人たちと働きたい!」と、すっかりのぼせ上ってしまいました。
数日後、大阪本社での面接の日時を知らせる電話を受けた時が、人生で1、2を争うピークだったに違いありません。面接官は記者と事務方が数人で、小論文がとにかく面白かったとの言葉をいただきました。多くをたずねられることもなく、なごやかな座談会のような面接。プロの記者から文章を褒められただけでなく、面接は出来レースのようで、これはもう採用が決まったようなものだと有頂天になりました。
そして最終面接へ。形だけのものだから、という大阪本社からの励ましの言葉を受け、東京本社へいざ出陣。新幹線で全国紙の最終面接に駆け付ける私・・・そのシチュエーションにすっかり酔っていましたね。
面接会場のドアを開けると、ずらりと居並ぶ重役らしき面々。大阪本社の面接とは大きく異なり、威圧感に満ちています。それでもなんとか質問をかわしていると、最後にとんでもない矢が飛んできたのです。
「この会社に、知り合いの方はいますか?」
咄嗟には質問の意味をはかりかねました。「それって、コネはありますか?ってこと?」と考えながら、残念ながらコネはないので、この新聞社のOBの教授のゼミを取っていたことを話したものの、手ごたえを感じられず面接は終了。
ああ、これは失敗したかもしれない・・・。東京駅まで地下鉄で戻る気力もなく、タクシーに乗り呆然と見上げた先には、ライトアップされた東京タワーが高く鮮やかにそびえたっていました。
予感通り、大阪本社から討死の連絡がありました。「こちらでは大丈夫だと思っていたのですが、残念です。できれば本試験を受けて下さい」と。
しかしもう、就職活動に取り組む気力がなくなっていました。コネがないことだけが原因で落とされたかどうかも定かでなく、「一度落とされたくらいで何を甘いことを。その悔しさをエネルギーに替えるんだ!」と、今ならその時の自分を励ますことができますが、世間も社会も知らないあまちゃんは絶望してしまいました。「試験や面接をしておきながら、結局はコネの有無を尋ねるなんて、世の中ってそんなものだったんだ」と会社というものに対する不信感で、満ち満ちてしまったのです。
それでも卒業は近づいてきます。内定をもらった友人も増えてきました。大学院に進むほど勉強熱心でもなく、かといって就職活動にも身が入らない。お酒が好きだという理由だけで受けた酒造会社、浪人中にお世話になった予備校など、行き当たりばったりで受けていると、唯一内定を出してくれたシステム開発会社があり、もうそれでいいやと、就職活動を終えました。
深く考えずに就職してしまうと後々大いに悩むことになろうとは、想像することもなく。
バブル崩壊から経済の低迷は長らく続くことになりますが、100社から落とされて自信喪失してしまった、という就職氷河期世代の話を聞くと、さもありなんと思うのです。純で傷つきやすい年頃に世間や社会から受けた傷は、その後の人生に想像以上に後をひきます。
「会社」というものがどうも信じられず、入社しても逃げ出したくなる習性は、生まれ持った一匹狼的な性格に原因があるのでしょうが、就職活動中に受けたあのショックも、少なからず影響を与えていると思うのです。と同時に、私の書いた文章を面白いと言ってくれた方たちの言葉があるから、こうして雑文を書き続けていることも、確かではあるのですが。