色々と移行していこう
しばらく止まっていたnoteの更新ですが、あくまで気持ちの部分で今なら再開できるだろうなとなりました。個人的には発信欲はあるのですが、通り過ぎる情報の慌ただしさに妙に冷めてしまう自分がいて、もしそれが今の情報発信の本流であるのなら、少しそこから抜けてもいいかなとなったからです。そのかわり、『丁寧に言葉を重ねたものが読みたいな』という気持ちを見つけたので、「できるかどうかは二の次」そして「では自分はどうなのか?」という自戒とともに、自分の心境を濃密な言葉で置き換えられるのかやってみようとなったわけです。
毎週の交流にて
毎週土曜日の朝8時から始まる朝活に参加させていただいております。不要不急の外出自粛要請が出てからこちらの朝活もオンラインを試そうという運びとなりました。いざやってみれば、仕事の都合で遠方に引っ越された方もオンラインなら参加できるというメリットが見えてきて、もっと早くやっても良かったねという声も出たりと、頭で考えるよりもやってみて目で見たほうがよく分かることを改めて実感しています。つまり、やや不謹慎ですが今回の状況はちいさな身内規模では、じつは結構良いことが多かったりします。またそれとは別に、週に一回、年齢も職業も専門性も程よくバラけた人たちで集まり、意見を訊ねたり補強してもらうことは遅効性で負担のない人間形成の効果を感じます。
言わせてもらうと批判の言葉が多すぎるよね
この見出し事態が批判的な言葉になっている矛盾なのですが、それでも時にははっきりと指し示して置いたほうがいいこともあります。きっともっと視野が広かったり、知識量の多い方は別の言い方をされる気がします。僕は語尾に「よね」を加えてちょっとマイルドにするので精一杯。
さて少し話を戻すと、変化には必ず批判が起こるものです。これはもう人間の脳みそがそうなっているので、変化に抵抗感を覚えるのは仕方ない。……のですが、それを言葉に出すという動作にするかどうかは別問題であって。そのまた別のタイプで、この発言がどう受け取られるかを考えて、声に出さない方もいらっしゃる。そういう方の言葉は、聞いてみると主観と客観が両方存在するので不快感は存在しない。そう考えると、見出しの言葉は「感情的な言葉が多すぎるよね」というのが正しいのかな。
議論というものを塗り絵で例えると
日本人が議論が苦手でアメリカや北欧の方は議論ができると聞くし、経験的にもやっぱりそうだと思います。彼らは主張の言葉がはっきりしている。バーで話すときもそうだったなと今でこそ思う。でもそこには主観と客観の両方を折り重ねた言葉だったかも、とも。そしてこの日の朝活で話を聞きながら、日本と海外における報道の違いもひとつの要因なのかもと感じました。たとえばyoutubeにありますが、このようなドキュメンタリー番組がニュースの枠に入るのがアメリカ。
(この動画も今日教えていただいたもの。この一本だけでもよっぽど事実・事象に近い報道のような気がします。他の国の報道も見るとより事実の輪郭が見えてくるのでしょう。)
議論というのは事実や基本的な前提が存在して行えるもの、つまり塗り絵を例にすると「線画」という事象や客観情報があって、その上で「自分はそこに何色を置いたか」という意見を交換することではないのかなと。
海外は線画にあたる事実や実情(ファクト)を届ける文化や環境があるから、互いの頭に事実という線画が共通した形で存在するので、自身の主張をぶつけ合っても成立するし、余計な確認を挟まないのかなと。アメリカナイズせえとはもうしませんが、そんな報道風土はもうちょっと日本にあってもいい気がしますし、そこに頼らずとも今の時代なら海外の報道もこちらから取りにいけるので、僕含めて、個人が足を伸ばして調べるようになってもいいかもしれません。
ああ、やっぱり読書なのだなあ
この日、持ち合わせの知識に大いに不足を感じ、日々の振る舞いにも反省を感じた日でした。とはいえショックはありませんでした。じゃあこうしてみようかな。この思考は自分の好きな部分の一つだったりします。
生来の飽きっぽさも手伝って、ここしばらくの言葉にできすにいたモヤモヤがありました。そしてここひと月ちょっとの間に見えてきた、来年・3年後までに必要な変化と、それに伴い起こってきた心境の変化が情報をもとめつつ、その手段にまた読書へと目が向きはじめてきました。なので以前のような本を避ける傾向もなくなり、しかし乱読ではなくただ粛々と、理想としては心穏やかにうんうんと心で頷きながら、本からタネを拾っては頭や心の土壌に埋めていく読書をしたくなりました。肌に合うかはやってみないと分からないということで。今回のトップ写真はその心境第一冊目。ここからSDGs関係を何冊か、そして『ホモデウス』へと連結していく読書を考えています。