仏壇のお饅頭を見て思うこと。
突然だがあなたはどんな宗教を信仰しているだろうか。
仏教かもしれないしカトリックかもしれないし、ヒンドゥー教、イスラム教だって有り得るだろう。
国内だけで18万以上の宗教があるという説があるらしい。意味がわからない。もっとあるだろうと言いたくなる。仏教だけでもどれだけの宗派があると思っているのだ。
私は無宗教だ。と、子供の頃は自負していた。
両親と祖父母に連れられ毎年神社に初詣に行き、お葬式ではお寺のお坊さんのありがたいお話を眠気を必死で押し殺しながら聞いていた。いや、半分は寝ていた。
きっと自分が大人になったら毎年初詣にも行かないだろう、死んだ時にはその辺の海にでも山にでも骨をまいてくれと思っていた。
ある日、祖父が亡くなった。
祖父は死するべくして最後の日を迎えた。あの日の朝、家族は皆祖父が入院している病院からの電話で叩き起された。もう全員今日が最後だとわかってしまっていた。祖父の人生のうち10年ほどはベットの上で管に繋がれていたのだ。
生きているのは奇跡に近いです。とお医者様は言っていた。
それまでは1度しか泣いた姿を見たことがなかった祖母は祖父が倒れ管を繋ぐことへの承諾書を書いたあの日から、10年間毎日のようにあなたを生き地獄に留めてしまって申し訳ないと泣いていた。
一瞬で来る別れに耐えれない思いと生き地獄を味合わせる辛さを天秤にかけることなど簡単に出来る訳が無いのだ。
今治療をしなければ、あなたの大切な人は死んでしまう。でもその後元には一生戻らない。ご飯も食べれない、息もままならない、声も出せない体も動かない。祖母の選択を家族の誰も攻めやしないのに。私は祖母の選択を一生心に刻んで生きていくだろう。
それが良いか悪いかを誰も判断できやしないのだ。
祖父が亡くなって葬式が開かれた。親族が集まり思い出話に皆が浸っていた。不思議なもので、私の中の元気な頃の祖父の記憶は朧気なのに皆の中では違うらしい。
何か覚えていることはあるか?と言われ必死で思い出した事は、よく祖父と隠れんぼをしたこと。週末近所の公園に連れていってもらったこと。そして祖父の誓いだけだった。
祖父は1度だけ私に誓いをした。それはきっと私と祖父の間の冗談のようなもので、その頃の私は何も気づいてなどいなかった。
いつかおじいちゃんがおらんくなっても、おじいちゃんはお前を守るでなあ。
その意味を私は何も理解していなかった。いなくなれば守れるわけはない、だって居ないのだ。ここにも、そこにも、あちらにも、こちらにも、居ないのだ。どこにも居ないのだ。そう私が告げても祖父はただ微笑んで頭を撫でるだけだった。
今、私は自分の祖父を信じている。1度も私に嘘をつかなかった祖父を心底信じている。でも、きっと祖父はこの世にはいないしあの世にもいないと思う。
実家に帰る度一応仏壇に手を合わせるが、そこに祖父がいると思ったことはあまりない。仏壇にはお釈迦様とお坊さんの絵が描いてあるが、私は彼らの名前を知らないし、彼らも私のお参りをなんとも思ってはいないだろう。
でも、ひとつだけ確かなことは、私も死んだあと私の家族をきっと守り続けるだろうということだ。もし、それが可能であればの話だが。
この前渋谷でテクテクと歩いていたら、あなたは神を信じますか?と言われた。
そんなに人生に困るほどの貧乏オーラが溢れていただろうか?全く持って不覚である。これからは隠しきれぬ才能と呼んで欲しい。
とりあえず無視をするようにしているのだが、今度会ったら、あなたの神は私を救えないとでも言おうかと思う。
まずもって、私は救いを必要とはしていない。ただ、心のそばで私を見守っている祖父がいれば、それで十分なのである。