人づきあいと尾崎世界観
私は昔から人との距離感や接し方をすごく気にしていて、今現在は前ほど敏感ではないが考えてないと言ったら嘘になる。
昔の私は自分から初対面の人に話しかける事ができず、失礼な事だが挨拶も会釈で返してしまう程の極度の人見知り小僧だった。
物心着いた時から「人」という物をあんまり信用していなかった。特に誰かに何かをされたなどトラウマ体験がある訳ではないが。
だから、悪口も話さないし、学生の頃なんかも好きな人が居ても決して教えなかった。
ただたまに例外のひとがいて、、
少人数にしか話さないような話や悩み事、秘密事を話してくれる人。
私に気を許してくれているんだなぁとほっとする。そう思って話してくれているなら私も同じように返して、そんな距離感でありたいと思い心をひらく。
100年時代だとしたら5分の1しか生きてない人間だが、もう既に2人には巡り合わせて頂いてる。有難い。
でもそんな2人と話している時も嘘はつかずありのままの自分で会話しているが、事実をストレートに伝えたら引かれてしまうと思いオブラートに包んで伝えたり、言葉選びを大切にしている。
社会にでて思ったことでもある。
伝えたいことが一緒なのに、伝え方や、態度が違うだけでこうも受け取り側は良い気持ちにもなり、不快とも思ってしまう。
むずかしい。こんなことを考えながら会話をしていると疲れてしまうし、本当に伝えたい事がぼけてしまい忘れてしまう。
私が特に会話を交わす内で気をつけるようと思うようになった言葉がある。
人、1人に話した事は世界中に発信されたと思え
この位強く「人を信用せず話さなければならない」ということ。
関わる人皆が口が軽く、秘密事ね!なんて言って打ち明けた話も口外されるとは思ってない。
''そう思っていたい''も含まれていると思う。
条件(確証)がないとどうしても打ち明けられない。
例えば、
家族であれば、自分のマイナスな思考や悪行、悪口を言うとする。
そして私の家族はわざわざ口外するメリットがない。デメリットしか生まない。
「自分の身内がこんな悪い奴なんです」と自分で宣言するのと同じだから。つまり自分自身の株も下がる。
だから家族には気兼ねなく事実を打ち明けてる。けどそこでも結局は人対人は変わりないので、''人としての尊厳が失われる''様な事までは言わないでいる。それはもう自分の存在価値すらなくなるから。言ってて自分で嫌になると思う。(言った事ないから憶測で。
会話って考えれば考えるほどむず痒いな、、
尾崎世界観みたいに会話は遊びの一種なんて思えれば楽なのだろうな〜〜