わたしはきっと、個の確立した価値観と共存したいのだと思う
最近自分の進んでいる感がない。
先月先々月よりも人に会っていて色んな価値観に触れるけれど、全くもって自分は進んでなくて、「そこまできてるなら行動するのみだね」と、話の終止符はいつもそこに行き着く。
でも思考はとまらない
ことばに触れれば触れるほど、ばらばらになっていた原体験がまとまってくる
「価値観の共存」
最近わかったことがある。私の大切にしているもの、パッション湧くもの、理想とするもの。だから今日はそれだけ記しておきたい。
今までの人生で、色んな人に色んなことを言われてきた。
わたしは、見た目と中身にギャップを持たれることがほとんどで、人生常にハードモードだったから逆にそれがふつうになったし、勘違いされることに慣れてしまった。
それはそれでまた勘違いされるんだけども。
だから、その人の価値観、生き方みたいなものって無意識に認めるようにしてた
否定したって、あの人はそういう環境で育ったんだし
あの人が当たり前でも、私はあの人じゃないから当たり前にできなくていいし
そうやって、他者と私を別物として扱い、
「人は人」論を全力で提唱してきたけど、それでも人に興味がわく自分が不思議で仕方がなかった。
ギャップを持たれることは人間らしくていい、とだれかが言っていた。
ギャップを持たれることにどこか嫌気がさしていた私は、その言葉を聞いたときに少し腑に落ちた。
人より少し多く勘違いされるだけで、
わたしも人間なのだと
なんでかって
わたしは人間が好きだから
人間の負の感情とか、欲とか、醜さとかすごい人間らしいなと思っていて、ずっとヘラヘラしてる人や物欲ない人とかあんまり魅力を感じないし 逆に人のマイナス部分の否定は結局嫉妬だったりするから、それを素直に表現できていない人ってつまらない人間だと感じてしまう。
だからといって、すべて美学として受け止められる段階までいけてないけどね
半分同情してしまったり
重ねてしまったり
まあ、それも人間らしいっちゃ人間らしいと思う
そして人に興味を持てる自分が不思議だったというお話なんだけど
興味を持つ人と、そうでない人
あと
理想とする「価値観の共存」の「共存」する人のこと
がわかった気がする
わたしが共存したい人
それは、自分の価値観を自覚してる人
もっといえば、自分の信念をもって世界観を広げられるひと
これは強い
価値観は違えど自分の信念を持っていたら個が確立する
お互いに認め合い、弱みをさらけ出し、補完し合う
相互作用が生まれればれば生まれるほど、他者と比較して生きずともつよい
自分の軸はブレず、他者も認め合える
別に理解しなくてもいい
その人の”あり方”だけ認めてあげればいい
これって、自分の価値観がどんなものか、なにを大切にしているか自覚してる人じゃないできないことだ
まずは自分の軸を持つこと
そして人の価値観に触れること
私は「個」が確立している価値観と共存したい
だからたくさんの価値観に興味が沸くし
一緒にいたら新しい気づきがあっておもしろい
これからもっと、色んな「価値観の共存」をしたい