阿古の吾子(四)
その日。
つながれている。ベッドの上で。手足を動かそうとするが、動かせない。小学校の時履いていた、上履きの生地の様なもので、両手首と両足首と腹部を固定されていることに気付く。部屋は薄暗いが、壁紙は白であることが分かる。首を少し上げると、天袋の位置に窓があることが分かるが、何も見えない。右手側の壁には、何かが印刷された紙が2枚貼ってある。ここは一体どこで、今は何日の何時かも分からない。
記憶を手繰り寄せる。そうだ、五月くんのバーにいたはず。バーのグラス全部に毒が塗られていたんだ、だから壊した。叫んだ。それから母さんが来て。車に乗せられて。そこから思い出せない。
「五月くん!五月くんはどこ!!」
叫んでみるが、白い壁に吸収され、白い壁は黙ったままだ。あさは泣きそうになって、 また一言、「五月くん」と呟く。
五月くんは、父の後輩の男性だ。あさが小さい頃から知っていて、今では何でも話せる父親代わりの大好きな存在だ。五月くんは、あさの住む街の近くで、小さなバーを経営している。高校を出てから、何をするでもない、あさをスタッフとして雇ってくれたのも五月くんだ。あさはお酒を飲めないので、ノンアルコールカクテル担当として雇われている。母もよく客として来ていた。ここでつながれている前も、夜に働きに行ったはずだ。
あさの抵抗は無駄に終わって、観念した。目をつぶっても、頭が混乱している。眠れそうにもない。
次に目が覚めると、といっても、寝ていたのか起きていたのかも定かではない。ぼんやりと右手側を見る。紙2枚が、見やすいように横向きに貼り直されていた。『措置入院』という文字が見えた。ここは病院?
「誰か!誰かいますか!」
聞こえているかも、人がいるかも分からない。五月くんは無事だろうか、毒のついたグラスを口にしていないだろうか。最近よく来るようになった、スーツの二人組のお客が、前々から怪しいと思っていた。あの二人がやったに違いない。私達を執拗に狙っているのだ。私がこんなところにいるのはおかしい。早く伝えなければ。叫び出しそうになりながら、目をつぶる。頭がぼんやりして、眠ってしまいそうな気がしてきた。
また次に目が覚めると、部屋に誰かが入って来た。手慣れた様子で、あさを拘束しているベルトを外していく。安心感よりもこの次に何が起こるのか恐ろしすぎて、声が出なかった。全部外し終わると、その誰かは聞き取れない小さい声で囁いた。どうやら部屋を移動するらしい。目眩がする気がするが、ベットを降りてその誰かに誘導され、短い廊下を歩いた。他にも部屋が並んでいて驚く。
今度はさっきとは全く違う、ベットのある広い部屋に案内された。拘束する器具はなかった。やはり病院のようだった。先程よりは、頭の中が落ち着いている。するとドアが開いて、母と看護師らしき人が入ってきた。
「あさちゃん!!」
母は叫ぶとあさを抱きしめた。細いあさの身体が折れそうになる。母の目の下に隈ができている。何か申し訳ないことをした、とは思うが、頭がぼーっとする。看護師らしき人が、母に書類を渡しつつ、何か説明をしている。
「母さん。」
と一言言ったところで、また来るから、と母と看護師らしき人は出て行ってしまった。話を聞こうと、追いかけて閉まったドアを開けようとしたが、鍵がかかっていた。ドアには小さな窓がついている。必死にずっと見ていると、ドアの向こうの通路に、部屋着を着た人や看護師らしき人が何人か通っている。
「ここから出して!!」
叫びは、むなしく部屋にこだまするだけだった。良く部屋を見ると、トイレがある。この一室で生活するようだ。隣には、細い窓があった。外を見ると、ここが高い階数だと分かる。ビルや家の間に大きな緑が見える。しかし街並みを見ても、ここがどこだかは分からない。不安感に襲われる。
部屋の時計を見ると、18時になるところだった。すると、ドアがノックされた。ドアが開くと、食事が運ばれてきた。先程とは違う女性の看護師らしき人だ。そしてすぐドアは閉まった。ベッドの上までトレイに乗った食事を自分で運び、食べることにした。ご飯と味噌汁と小松菜のお浸しと鯖の味噌煮。お浸しを口に運ぶが、食感がくたくたすぎて全くおいしくない。
このがらんどうの部屋で一人で食事をしていると、とてつもない寂しさが込み上げてきた。喉が締め付けられる。味がしない。鯖の身をほぐし倦んで、味噌汁にぽとりと涙がこぼれる。
とにかく心配なのは五月くんだ。私が必死に訴えた言葉は伝わっただろうか。グラスも壊さなければ、五月くんの命が危なかった。五月くんの困惑した表情が浮かんで、あさはイライラした。急がないとまた危険な目に合うはずだ。自分が訳の分からない、こんなところにいるのがもどかしい。
窓を見ると、あさの焦りを宥めるように、夜がゆっくりやって来ているところだった。
5年前のこと。