阿古の吾子(三)

 背筋が寒くなる。今になって。狙われているのは私かもしれない、という不快な選択肢が一気に脳内を支配する。鍵を差した。後ろに立っている斎藤の様子は見えない。
(クロロホルムを染み込ませたハンカチ。あるいは単純にトンカチ。最悪、死。)
がちゃり、と鍵が開く。
「お邪魔します。あれ、留守なの?朱珠ちゃん仕事?」
「そうですけど。」
斎藤は母がいるのかと思っていたようだ。しかし、ほとんど喋ったことのない、恋人の娘と二人きりという状況に戸惑っている様子でもなかった。あさは間の抜けた斎藤の声を聞いて、少し緊張が解けた。そして、襲われるかもしれない前に、やはりこの男性の素性を暴こうと決めた。どうぞ、と声をかけると、斎藤は今度は少し決まり悪そうに、あさ用の座布団に座った。
「紅茶入れますね。甘いもの嫌いじゃなかったらこれ、召し上がって下さい。ルバーブのジャムパンです。」
そう言って、小さいアルミホイルの包みを渡した。あさが『シセツ』の休みの時に試作したものだ。焼いた時に破裂して見た目が悪い上に、ジャムとパンの食感がミスマッチで、正直失敗作だ。まあこの客人なら良いだろうと、出した。
ルバーブ?と聞き返しながら、斎藤は眼鏡を上げ下げして見ている。
「頂きます。うん、美味しい。食感が良い。」
柿の時くらい激昂されたら、と思ったがそうではなかった。紅茶をほとんど飲まずに、完食していた。
「斎藤さんは今日お仕事お休みなんですか?」
斎藤が失敗作を食べている間に、他愛ない話題を一生懸命考えて出た言葉。多分無難だ。
「うーん。そうだね。毎日休みっちゃ休みみたいなものかな。会社譲っちゃったからね。今、会長。」
「そうなんですね。すごい。」
あさは落ち込む。会話を止めるような返答しか思い付かない。障害を発症する前は、会話では当意即妙の返答ができる、口から先に生まれたような人間だったのに。発症してから、うまく話せないもどかしさを感じる機会が増えた。障害の特性なのか、薬物治療による弊害かは分からない。医師がゆっくりやりましょう、と言ったように、リハビリに努めて、少しずつ他人とコミュニケーションを取れるようになってきているのも確かだ。あさが顔色を読まれまいと黙っていると、今度は斎藤が聞いた。
「あささんは今日は施設の帰り?」
(あさ、さん。って呼ぶんだ。)
「そうです。でも…。」
 ピンポーン。家のインターホンが鳴る。点検の業者が来たようだ。座っている斎藤の後ろを通り、ドアを開ける。作業着姿の若い男性と中年男性の二人組が、道具をいろいろ携えて立っていた。
「水回りの点検に参りました。15分くらいで終わりますので。」
宜しくお願いします。と言って、玄関横にある洗面所に案内する。作業は見ていなくて良いとのことだが、リビングに戻っても会話をこれ以上盛り上げる自信がないので、業者の手元を覗いていた。
「以上で検査終わりです!失礼します!」
 業者を見送ってリビングに戻ると、斎藤は猫背の小さい背中で紅茶をすすっていた。視線をあさに向けると、座り直して、相好を崩して言った。
「朱珠ちゃんから話たくさん聞いてるよ。あささんは自慢の娘だってね。」
母と付き合う宣言をした以来の斎藤の大きい笑顔だ。母は一体どこまで私の話をしているのだろう。施設と言っていたということは、障害のことは知っているはずか。酔っ払ったら、すぐ楽しくなってしまう母だ。あさが言って欲しくない話をしているかもしれない。
「あぁ。ははは。嬉しいです。」
と素直に返した。斎藤の仕事のことをうまく聞き出せなかった時点で、己の不甲斐なさに心が折れてしまっているので、適当な言葉しか返せない。そして次の言葉も出てこない。そんなあさの蹉跌を見抜いてか、斎藤は続けた。
「だから、無理して明るくしなくて良いと思う。」
(え?)
斎藤は射抜くような視線でこちらを見ている。あさは耐えられずThe Velvet UndergroundのネイビーのTシャツに視線を下げる。肯定されているのか、否定されているのか分からない。年長者が訓戒を垂れているだけのような気もする。でも何故かあさには、自分の存在を認められたような気がしてならなかった。発症から今まで、上手く話そう、昔の自分に戻ろうと躍起になっていた。今までの自分なんて幻想で、そんなものはなかったのかもしれない。
 さっきまで、この母の恋人の素性を暴こうとしていた。しかしこの一言で、逆に自分の僅か26年の半生を、この男性に預けてみるか、と思った。時間はある。思い出したくない、苦しくて恥ずかしい記憶の断片を、ひとつひとつ繋いで。
「私が5年前に何したか知ってますか。」
あさは斎藤の目をしっかり見て問うた。


いいなと思ったら応援しよう!