阿古の吾子(七)
そしてチャウちゃんはいなくなった。退院が決まったのだ。
その日のお昼過ぎ、チャウちゃんは大きな荷物を両手に抱えていた。母親だと紹介された、細身の女性と透明の扉の手前で挨拶をする。
「なおみちゃん、さみしいけどおめでとう。外でも元気でね。」
誰でも言える言葉しか出て来ない。連絡先は交換してはいけない、という院内のルールがある為、これが最後の別れだ。
「ありがとうあさちゃん。あさちゃんならきっと、外の世界でも楽しくできるよ!」
荷物を置いて、両手を大きく振ったチャウちゃんは、外の世界へ出ていった。とびきりの笑顔を残して。
チャウちゃんのいない毎日は空虚と混迷の日々だった。大分落ち着いてきたが、未だにスーツの二人組が襲いにやって来る不安は拭えきれない。五月くんも心配だ。チャウちゃんのいない心の穴に、とくとくと不安が注がれていく。
他に話す相手がいない訳ではない。同い年くらいの女子三人組がいるのだ。三人はアニメ好きという共通の話題があるらしく、いつも三人組で熱心に語り合っている。あさはアニメは全く興味がなかったが、学生の頃にやっていた、可愛い制服を着たキャラが観光の船乗りをしているアニメを観ていた覚えがある。秋葉原でコスプレの衣装を買おうか迷ったことも思い出した。それくらいしか話題がないので、自然とその輪には入らないようにしていた。
チャウちゃんを見送った後、自分の部屋で窓から緑を見る。このジリジリとコンクリートを照らす日光の下では、木陰をもってしても暑そうだ。視覚的にしか感じない夏を見つめながら、ここは一体どこなのだろう、入院当時とは少し違う意味でそうふと、考えた。頭がぼーっとする。今日は何日経った何曜日だろう。
すると突然、ドアがノックされた。浅野先生だった。朝の回診の時はいなかったので、こんな時間に来たことに驚いた。
「もうすぐおやつの時間だねえ。買いに行ってみる?」
あさは意味が飲み込めなかった。入院患者は、院内で使えるお金があること、それは母が用意していたこと、おやつは時間が決まっているが、病院の売店で買って食べて良いことを、ゆっくりと説明してくれた。
「おやつと院内!」
思わず、あさは復唱する。浅野先生は目尻に、まだできて浅いであろう小皺を浮かべて、にこりとすると帰って行った。
たったそれだけの用事で来たのかとは微塵も疑問に思わず、あさは喜びに浸っていた。幽閉されていた日から、徐々に規制が緩和されていることにも気付いた。チャウちゃんのように外出もできるのだろうか。そうであれば五月くんに会いに行かなければ。また不安が襲って来る。
浅野先生と入れ替わりで、看護師が来た。では行きましょう。と言われて、あさはもらった簡易的な財布を握りしめて、透明の扉を出た。するともう一枚扉があった。明るいグレーの扉が開いた。そこはエレベーターホールになっていて、上の方に『12B』と書かれていた。看護師とエレベータに乗ると、ここは12階だということが分かった。降下して行く感覚が、足元から伝わってよろけそうになる。乗っているのはずっと二人だけ。
1階に着く。エレベーターの扉が開く。音、光、匂い、ありとあらゆる刺激があさを襲う。行き交う患者、人々の声。病院入口から入って来る日差し、漂う病院特有のアルコール臭と夏の風の匂い。あさは足元がふわふわする感覚に襲われて、へたりこんでしまった。すると看護師は、ちょっと休もうか、とベンチを指差した。座っていても、刺激は強く、自分はどうなってしまうのか不安になった。目の奥が重くなって、目をつぶっていると、看護師が
「ちょっと疲れちゃったかな。阿古さんはお部屋に戻って、私が買って来るね。何が食べたいかしら?」
そんなパシりみたいなことをしてくれるのかと驚いたが、一刻も早く部屋に戻りたくて、
「ゼリーが食べたいです。桃の。」と言った。
一緒に部屋まで戻って横になって少しすると、看護師が桃のゼリーを持って来てくれた。ゼリー、しかも桃、とピンポイントで売っていたのか、とパシりに続いて二度驚く。礼を言うと、
「もうすぐお母様いらっしゃいますよ。」
と嬉しい報せを告げて、自然な笑顔で退出した。
さっそくゼリーを一口スプーンですくう。入院してからずっとそうだったが、手元と口元の距離感が難しくて食べるのに時間がかかる。思い通りに手先を動かせない。ゆっくりと口にゼリーを含む。そのぴったりと舌先に乗った冷たい甘さに、さっき病院入口で感じた夏の日差しと風の匂いを思い出す。桃の香りが鼻から抜ける。看護師さん優しいなと心の中で、呟く。
ここは仕切られた夏だ。ここ以外は本物の夏だ。部屋のはめ殺し窓から視覚的にしか感じられなかった夏を、今日は実際に少し触れ、その持っているエネルギーを感じた。負けそうで悔しくて、でも力は出ない。
「あさちゃん!」
母の、夏も冬も春も秋も変わらない明るい声が、聞こえた。