阿古の吾子(六)

 ガチャ。ガチャガチャ。スタスタスタ。ガチャ。ガチャガチャ。スタスタスタ。ガチャ。ガチャガチャ。
 あさはチャウちゃんの言葉を聞くか聞かないか、ソファの後ろにある重厚な扉、L字の廊下の途中にある白い扉、食事が運ばれてくる時にしか開かない扉、3つの開かない扉のドアレバーを開けようとする。開かない。開かない。開かない。あさはどうしてもこの行為がやめられない。看護師に軽くいなされたが。
 チャウちゃんは
「誰かから逃げてるの?」
とずばり正解を聞いてきた。あさはこれまでの顛末を話そうと思った。しかし投薬を始めて、今までのことが妄想であったのか、という考えが持てるようになってきた。相変わらずそわそわするが、ぼーっともしてきた。
「今日のご飯なんだろうね。一緒に献立表見て来よう!」
とチャウちゃんは、まるで看護師のような気遣いで、あさを落ちつかせてくれた。
 あさは個室での幽閉が終わったタイミングで、他の患者たちと食事を取るようになった。食堂は白を基調とした部屋で、奥の高い位置にテレビがある。いつでも入れる空間だ。初めて来た時は、こんなに患者がいたのか、と驚いた。皆と食べていると、食事も少しおいしく感じる。
 チャウちゃんは食堂に貼られている献立を見て、微妙だね。と呟く。鯵の南蛮漬けだった。あさは喜んだのだが。チャウちゃんは用事があると言って、自室へ戻ってしまった。
 珍しくおいしかった鯵の南蛮漬けを食べ終わって、チャウちゃんのいないソファに座っていると、14時になった。するとL字の廊下に患者20人くらいが出てきた。ラジオ体操の時間だ。毎日この時間に廊下で音楽が流され、皆、体を動かす。あさは学生以来にやるラジオ体操で、全然覚えていないが、少しリフレッシュになる。
 ラジオ体操をやっていると、毎週末に来てくれる母が来た。閉鎖病棟なので、入る時には手続きがあり、少し時間がかかる。透明の扉の向こうに見える母の姿に安心する。あれから、キッチンタイマーは1時間に延長された。どうやら、どんどん規制が緩くなるらしい。洗った寝間着や下着を持って来る。あさのスマホは没収されているので、母が動物の面白映像を見せてくれる。可愛い笑顔を浮かべるチンパンジーを見て、飼いたくなる。院内にテレビはあるが、音と映像が刺激が強く感じて、つらくて見ていて疲れてしまう。このくらいの短い動画だと面白く感じる。本も文字を追っていても頭に入って来ない。雑誌の写真を見るのが精一杯だ。とにかくできる娯楽が少ない。母との会話は貴重だ。
「その朱色のパンツ持ってた?見たことない。可愛いね。」
「よくぞ気付きました!斎藤さんがプレゼントしてくれたの!」
斎藤は母は仲良くやってるのか、とあまり興味がなかったが、服のセンスはあさと近いようだということが分かった。あっという間に1時間が経ち、母は帰った。
 あさは寂しさを抱きながら、チャウちゃんがいないかと、ふらっとソファに行ってみた。いた。だが、いつもと違う。泣いているのだ。さめざめと。
「なおみちゃん、大丈夫?どうしたの?」
あさは感情が高ぶって一緒に泣いてしまいそうだった。
「今日これ買って来たんだけど、やっぱり私には似合わないと思って。無駄なことしちゃった。」
チャウちゃんの手には、四つ葉のクローバー柄の、緑色の財布が握られていた。あさは、入院中に外出なんてできるのか、とそこに驚きを禁じ得なかったが、言った。
「とっても可愛いよ、なおみちゃんにとっても似合ってる。」
「そうかなあ。そうかなあ…。」
チャウちゃんは少し落ち着いた様子で、財布を見つめていた。あさは気を紛らわそうとして、質問する。
「どこに行って来たの?」
「公園の近く散歩してきたよ。ちょっと暑すぎたなあ。」
 そこから二人でいろいろなことを話した。いつからここにいるのか。病状のこと。そして年下だと思っていたのが、同じ学年だということが分かり、一気に意気投合した。やはり窓から会釈してくれる程の優しい女性だった。しかしあさは、気になっていた。
「早く逃げた方が良いって言ってたのは何で?」
どんな恐ろしいことを言われるか身構えていたが、チャウちゃんは笑顔で言った。
「あさちゃんはこんなところにいちゃだめだから!きっと外でも楽しくやっていけるよ。」
挨拶だけで、ほぼ話したことがなかったのにそう言われて、普通は疑問を持つのかもしれないが、あさは甚く感動した。
「なおみちゃん、ありがとう。本当にありがとう。」
今度は、あさが泣いていた。効きすぎているクーラーがあさの涙を顔を冷やす。季節の感覚がないこの部屋で、二人は過ごす。泣いたり笑ったり。あさは一体普通の生活に戻れるのか、ずっと焦りを感じていたが、ここも悪くない。流れる時と涙の中に、いろいろな感情が混ざっていった。少し涼しすぎる、あさの21歳の夏。


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