阿古の吾子(五)
それは冷たい夏の始まりだった。冷房が効きすぎているから。やはり味に難ありの朝食を済ませ、付いてきたジョアを飲む。食事のどれよりもジョアが一番おいしい。二口で飲み終わると、またあさはドアに付いている小窓から、廊下を覗く。通る人を凝視する。目が合うと訴えるように会釈をする。挨拶というより、もはや儀式だ。ここから出る為の。
そうこうしていると、ドアがノックされ、人が四人入ってきた。医師三人と看護師一名だった。看護師は血圧計の用意をかちゃかちゃと始めている。すると、
「昨日は眠れましたか?」と医師の一人が尋ねた。
「はい、割と。」
そうですか、と三人の医師は微笑み合っている。すると、白衣のポケットに付いているネームプレートを見せながら、
「浅野です。」
「照木です。」
「中山です。」
と自己紹介をした。浅照中。覚える。女性の浅野医師がゆっくりとした口調で事の経緯を話し始めた。ここはどこで、どのような症状で、今は『頭の中が忙しい状態』であること、入院と投薬による治療が必要であること。あさはとにかくここから出して欲しいし、薬には毒がスーツの二人組によって、毒が仕込まれているから服薬したくない、と訴えた。しかしその声は吸収されるように、聞いていないかのようにやんわりと、そして丁寧な説明で一蹴された。持って来られた錠剤数錠をしぶしぶ飲んで、医師に空になった口内を見せた。そして医師は出て行った。浅野医師が言っていた『頭の中が忙しい状態』という表現だけ脳内に貼りついていた。血圧を放心状態で測っていると、看護師が
「今日お昼過ぎ、お母様が見えますよ。」
と言った。あさは不安で押し込めていた感情が一気に溢れて、返答に困り黙ったままになってしまった。母さんならきっと、ここから出る為の術を知っている。そして狙われている五月くんのことも聞けるはずだ。いや、母さんも狙われているかもしれない。
恐ろしい考えに行きつき、いつの間にか出ていった看護師をよそに、あさは個室の隅々をぐるぐると徘徊した。『頭の中が忙しい状態』で爆発しそうだった。そしてまた儀式を始める。すると、あさは小窓で良く見る女の子が一人いることに気付いた。その子はちょっとぽっちゃりしたツインテールの女の子で、あさと目が合う度に必ず笑顔で会釈してくれる。その笑顔は犬のチャウチャウを想起させる。チャウちゃんと勝手に呼ぶことにした。私より確実に年下に見えるあの子は、なぜこの病院に囚われているのだろう。人懐っこい笑顔からは、想像が付かない。そしてこの扉の向こうで行ったり来たり、何をしているのだろう。
徘徊と儀式に疲れ、ベッドに横になっていたら、いつの間にか眠っていた。目を覚ますともう、昼食の時間だった。ジョアはない。終わった頃にまた薬が運ばれて来て、飲み、口内をチェックされた。
すると、ドアがノックされた。入って来たのは母だった。安心という塊が身体を劈くように震えた。
「母さん!母さん!」
「あさちゃん!調子どう?入院用の服とか雑誌とか持って来たよ~。POPEYE読む?好きそうな特集だよ。」
あさは嬉しい反面、母から入院という単語を聞かされて、現実に引き戻された。やはりここから出られないのか。
「五月くんは?」
絞り出すように聞く。
「店の新しいグラス選んでるよ~。にしても綺麗な病室で良かったね。」
「うん…。」
求めている答えは一向に出てこないが、次第に母がいる安心感で落ち着いてきた。すると、母が小さなキッチンタイマーを持っていることに気付いた。
「そのタイマー何?」
「あぁ、これ?面会は30分って決まってるの。」
母の手元からするりするりと時間が消えていく。あさは悲しくなって、黙ってしまった。それを察してか、母は
「ちょっとずつ、1回の面会の時間長くなるらしいから!まあ今日は一緒にPOPEYE読もうよ!」
あさの好きな、街中のファッションのスナップを集めた特集だった。母と、このコーディネートがオシャレだとか話しているうちに、あっという間にタイマーが鳴った。
「じゃあね、また来るから!」
と言って母は帰って、またあさは幽閉された。
それからどのくらいの日数が経っただろう。朝、看護師より朗報が来る。個室から外へ出入りが自由になったのだ。さっそく看護師と院内を歩いてみた。トイレ洗濯機テレビ公衆電話。全て作り物のように見える不思議な感覚に陥る。一通り説明が終わった。
部屋へ戻ろうとしてL字の廊下を曲がる。見えた長い廊下の一番奥にソファがあり、誰かが座っているようだった。好奇心でソファまで近付くと、そこに座っていたのは、ぽっちゃりしたツインテールの女の子。チャウちゃんだった。
「いつも挨拶してくれてたよね!私、なおみと言います!」
「私は阿古あさと言います。」
よろしくね、と一呼吸おいてチャウちゃんは、真っ直ぐ視線を合わせて言った。
「あささん。ここから早く逃げた方が良いよ。」