私の人生の【T・P】①
何度思い返しても涙が止まらない、あの日々の話をしよう。
どうか…
今の1番幸せなままで…
自分の人生を終わらせたい…
何度もそう思ったあの日々たちの。
3月にもなるのにその日は寒かった。淡い夜明けの澄んだ青空のような色をしたお気に入りのコートを羽織って家を出た。駅で先輩と合流し指定された店に入った。出会った瞬間から素敵な人だと思った。自分には高嶺の花すぎるくらい素敵な人。後の夫になる人だ。
隣の部署ではあるが慕っている先輩に連れられ、人数合わせのつもりで行った食事会という名の合コンだった。
ウイルスによる世界の侵食が始まりかけた2020年3月であった。
24歳だった私は就職して4年。物心ついた時から決めていた看護師になっていた。(正確には前世からのお告げなのだが、長くなるのでその話はまた別で書こうと思う)。とにかく看護を通して「人は何故生きるのか」を考えたかった。(考えよとのお告げでもあったのだが…)
あの時は自分の思い描く看護ができて幸せだった。
腫瘍に侵された人が最期まで生き抜くことを手伝う。そこにそれぞれの人生の哲学があった。
私は昼夜構わず働いた。年末年始もゴールデンウィークもXmasも。〔独り〕だったから家に帰る必要なんてなくて、何時間だって喜んで残業した。朝7時に病院に着いて、消灯してもなお詰所にいて。日付が変わる頃までいることもあった。準夜勤の人と一緒にロッカーで更衣した時にはさすがの私もやばいと思ったが。
翌月のシフト希望表には休み希望の記号ではなく「は!た!ら!き!ま!す!」と書いていた。シフトを組む師長には重宝され、家族のいる看護師からは勤務交代の希望を易々と受けていた。看護が好きだったから。好きな人とずっと一緒にいたいと思うように、好きな看護にずっと囲まれていたいと〔依存〕していた。これが良くなかったのだ。
働くことが好きではあったが、身体的な不調は年に1-2回のペースであった。目眩である。
始まりは看護学生の時であった。通学中の電車で居ても立ってもいられないくらいの吐き気に襲われて途中下車した。看護の勉強が好きすぎるあまり、睡眠時間は平均して3時間程度。実習課題やストレスもあったが、明日は何を学ぶのかとワクワクして寝付きも悪くなったのがこの頃であった。
そして看護師になってもそれは変わらなかった。好きなこととの距離感を間違えていたのである。最もこれも、今になってやっとわかった事なのだが。
無我夢中で仕事をするあまり、俗に言う体調管理というものは後回し。もはや体調を憚る・身体の声に耳を傾けることとはどういうことかすらわかっていなかった。ずさんな管理体制だったことをお詫び申し上げる。誰にだ。
しかしながら目眩は2-3日死んだように過ごせば、症状は軽快し、いつだって人手が不足している医療現場にはこんな私でも戻る場所があった。こんな私でも。これもよくなかった。
私は自慢することもできるが、使い方を誤れば誤爆しかねないくらいに幼い時から気が効きすぎるところがあった。
母がよく語る。
「1歳半離れた弟のオムツを替えようとしたら、
まだオムツをした貴方が弟のオムツとおしりふきを持って走ってきた」と。
人の行動や言動、期待や動向に敏感だった。
視野は360°に耳がダンボ。
ルンバにAlexaが載っているようなものだ。
不規則な生活も相まって2年目の頃から睡眠導入剤を使うようになった。眠りにつく瞬間に金縛りに合うことも多く、深夜や朝方の孤独な中でとてつもない恐怖を感じることが増えた。
いつの日からだったか、
一人暮らしの女子の小さな冷蔵庫に、日本酒の一升瓶が常備されるようになった。導入剤が効かなくなっていたのだ。不穏な予兆だった。もちろん気付かなかったが。
仕事終わり、食事とはあまり呼べないような簡単な料理とお酒を片手に過ごすようになった。そしてお酒で薬を飲んで死んだように眠るのだった。
記憶にないネット通販、記憶にない泣きながらの電話。
看護師なのにそれが異常な事だと気付けなかった。
もうすでに沼底だったのだ。
そんな生活を続けること3年余り。このままではダメだと知ってはいた。だが抜け出せなかった。
思っていたより長くなったので、
一旦ここで区切りをつけて出してみようと思う。
私の前世の話もある。
読んでもらうためにというよりは、
自分の過去を振り返って、言葉にしておく。
それがこれからを生きるために必要なのだと思う。
このnoteに出会わせてくれた友人にもこの場を借りて感謝したい。
またボチボチ書き溜めます。
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