人生で初めての終わりのない長期休暇 レールから外れた人生に悩みつつも、海岸沿い生活を心から楽しむ無職の日本人@トルコ
トルコ語大会を終えた後の私はとにかく体調が悪かった。風邪をこじらせたのか、ずっと咳をし続けて、食べてもたべても体重が減った。
一刻も早くどこかで療養しなければ、、、という心境だった。そこで行ったのは、当時のトルコ人彼氏の実家。彼はすでにもう別のお方と結婚されているので、詳細は省こう。彼はとてもいい人でした(まとめ方雑)
そしてそのあとトルコ人の大親友の元へ行った。彼女はマルマリス出身で実家に帰っていた。そして、私と同じくニート。
マルマリスというのはトルコの南西に位置する街で、超観光地。彼女の家は浜辺の近くにあった。徒歩30秒で海に行けたのだった。
彼女とは学生時代にトルコに留学していた時に会い、全然言葉がうまく通じないときから、なぜか心だけは通じ合っていたという親友。今でもWhatsappで週一で話す仲である。
<人生の休暇を楽しむニートの基本的な一日のタイムスケジュール>
10時 起床 浜辺へ行く。本読んだり、音楽聴きながら日光浴。お互い無言だったりもするが、基本めっちゃ語る。
12時半 ランチのために一時帰宅 家族みんなでだらだらお昼を食べる。どうでもいいことをめっちゃ語る。
14時半 昼寝 夕方まで寝る。でも暑くてなかなか寝られない。
17時 またもや海に行く。海で遊ぶ。ちょっと冷たい海の温度で涼む。めっちゃ語る。
19時 バーかカフェでエフェスビールかちゃいを飲む。めっちゃ語る。
24時 就寝
ご飯を食べ、寝て、めっちゃ語るのエンドレスリピート。一日10時間以上は余裕で寝ている生活だった。しかしなぜか太らなかった。
ニートが二人集っても毎日何をやるかは決まってない。自分たちで決める。
浜辺で絵描いたり、波に揺られたり、猫と戯れたり、近所のおじさんとチャイを飲んだり、山盛りのメロンを食べたり、夜の海に入ったり。
童心に返って遊びに遊んでいた。健全だった。
世間の目もなく、親の目も届かず、誰からも何も中傷も批判もされない。
今考えれば、その親友の親は一度も私達をなじることはなかった。トルコ人の文化である「ゲストを温かく迎えるホスピタリティ」的な温かさはやがて、「我が子同然の自然な扱い」に代わり、まるで家族のいち員かのように生活していた。
いつも親友のお父さんは言っていた「ミニオンはうちの娘だから!」今でも時々テレビ電話で話すんだけど、毎回言ってくれる。
自分の親も特に何かうるさく言ってくることはなかった。「ほとぼりが覚めたら戻ってくるんだろう」って思ってたのかな。
もちろん私達自身、将来に対する不安はあったんだけど、その気持ちをごまかすかのように毎日毎日宛もなくさまよってた。
夜が更けるまで、人生とは、宇宙とは、死とは、宗教とは、命とは何かと延々と話続けた。
時々ふたりで不安を口にして、涙することもあったりした。でももう日本にいた問みたいに「わーーーーー新卒で就職できなかった、人生もう終わりだーーーーー」っていうドラマクイーンな自分はなくなってて、
周りからみたら「ルーザー」(敗者)だったと思う。仕事もしないで、毎日ぶらぶらして、よく遊んで、よく寝て、よく食べて、、、
その代わり「まあとりあえず生きてはいける」ってよくも悪くも開き直ってた。誰も雇ってくれないかもしれない。でもそしたらバイトで生活するからいいや、みたいな。(ちょっと投げやり気味)
そんな時にトルコ人の友達経由で、トルコにある旅行会社が人を募集していると教えてくれました。
それを機にイスタンブールへ移動。
正に「飛んでイスタンブール」(また言う笑)
これにて休暇は突然終了した。
あれほど意義深い人生の休暇は、もう来ないんじゃないかと思うくらい、愛しい思い出。
あのまま日本にいたら、本当にやんでたかもしれない。周りから「なんとかなるよ」って無駄に励まされ続けてたら、発狂していたであろう。
日本では決められたレールか落ちた人が別な行き方を模索するのは難しい。特にそれまできちんとレールに沿った人生を送ろうと努めてきた人にとって、それは底なし沼のようだと思う。新卒で4月から入社しなかった場合、どんなレールがあるのかまるでわからなくて。。。羊飼いに連れられて、牧羊犬に方向を決められて、草を食べている羊たちと一緒だったんだなと悟った。群れから外れたら行き場所がなくなった(ような気がしてた)
地震が起こって内定が取り消しになったあとに、何も考えずにトルコに行く選択をしたあの時の自分を褒めてあげたい。
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