若い世代に知ってほしい骨髄ドナーのこと
近い将来、ドナー登録の年齢制限でたくさんの方が卒業してしまいます。
血液疾患の患者さんの病気を治す治療法の一つに、骨髄移植という方法があります。
患者さんの白血球の型とご家族の白血球の型と適合すれば患者さんは病気を治すために骨髄移植をすることが可能です。
しかし適合しない場合、血縁者以外にドナーをつのるしかありません。
そこで、骨髄移植が必要な患者さんと骨髄を提供するドナーをつなぐ公的事業に骨髄バンクというものがあります。
私は骨髄バンクを通じてドナーになり骨髄提供をいたしました。貴重な体験をさせていただき、患者さんを救うことができました。
実際に体験したドナーの体験を綴っていきます
よみがえるドナー登録した記憶
それはクリスマスの夜のことだった。
仕事から帰ってポストをのぞくと大きめの封筒が入っていた。
骨髄バンクからの連絡だった。
初めてそれを見た時は、「そういえば昔登録してたっけ」。
とあまり実感が湧かなかった。
中身を見てようやくことの重大さに気づいた。
患者さんと適合したのだと。
内容をよく見ると、ドナー候補者とのこと。
私以外にいるかもしれないし、いないかもしれない。
適合するのは1人だけじゃない場合もあるんだと初めて知った。
患者さんに骨髄提供する方法は一つでなく、手術するのか、献血のようにベットで休みながら採取する方法などがあった。
「そうか、手術もあるんだった。」
今まで手術をしたことはないし、全身麻酔も経験したことがない。
一瞬どうするか迷った。
手術は怖いと思った。しかし、手術することで救われる命があるということ。
まだ、手術がそんなに危ないと決まったわけではない。
全身麻酔、自分が病気などをした時に麻酔は普通にするかもしれない。臓器とかそういう移植ではない。
正直、登録した時はわかっていたかもわからないが、どういう手術なのか忘れてしまっていた。
手術で採取するところは骨髄で、骨髄は骨の中心部にあり白血球など血液細胞を作る組織とのこと。
手術の時の骨の場所は、採取しやすい腸骨でお尻の上あたりになる。
「お尻の上あたりか」
その時少し不安が少し和らいだのを覚えている。
ドナー登録したあの日も手術があることの不安があったのを思い出した。
でも今はどういう手術か理解ができる。
「大丈夫」。
そう思い、決心がついていた。
だが、まだ骨髄ドナーに決まったわけではなかった。
ドナー候補者に選ばれてこれから身体検査や親の同意などいくつかクリアしなければならないものがあった。
ドナーになり、骨髄採取に至るまで健康診断や入院などいろいろ準備が必要で、仕事の問題があった。
当時、介護職員として働いていた私は所長や先輩職員に相談する必要があった。
施設形態はグループホームで早番や遅番などのシフトが基本。
週に1、2回の身体検査なら問題ないが、手術前や術後の生活などで、1週間ぐらい程度の休みが必要だった。
コーディネーターからの連絡とドナー候補としての行動
封筒が届いてから翌日、コーディネーターから連絡があった。
提供の意思があるかなどや意思があれば、仕事との調整が可能かなど聞かれたと思う。
あらためて、実際に自分がドナーになって誰かの病気を治すことができるかもしれないという責任を感じていた。
ここで、断れば終わり。果たしてその選択肢を選んだらそれでいいのかと考えた。
自分はそれは嫌だと感じた。何万分の1の確率で適合して、ドナー候補になれたことの意味を考えた。
そしてなんのためにドナー登録したのかを考えた、、。
登録した当時は、献血など社会貢献に興味があった。
献血ルームに通う中で骨髄バンクドナーのことを知った。
社会貢献みたいなものに興味を持ったのは、母親のことがきっかけだった。
母親は難病を患ったことがあり、退院したもののマヒが残ったりうまく話せなくなっていた。
大人になっていくなかで、病気で苦しんでいるのは自分の母親だけでないと知った。
その頃から医療や社会貢献に興味を持った。
「そうだった、、。」
ドナー登録には思いがあった。
コーディネーターには、「提供したい」と話した。
意志は固まっていた。
その日は職場に伝えたり、仕事が休めるかなどの詳細を連絡をするとコーディネーターと約束をした。
親との話し合い
ドナー登録していることは、親は知らなかった。
登録は21歳、親に相談するみたいな考えもなく思いきって登録した感じだったと思う。
それから数年、適合するかもわからないものであるからすっかり頭から離れていた。
ドナー登録していたこと、そして適合したことを親に話した。
親は今父しかいない。母は、私が15歳の時に天国へ旅立った。
母は亡くなってしまったが、27歳の自分が誰かの命を救うことができるかもしれないという使命感を感じていた。
父に話した時は当然、「聞いてない」と言い怒った様子だった。
顔も名前もわからない赤の他人に、入院して手術までするのは親からしたらやめてほしいと思う。
父に自分の思いを話した。最後は悟ったように、わかったと。
◯◯(私の名前)が強く思うなら、いいよ。と。
家族の同意がなければドナーになれず骨髄採取は実現しない事実。
親からの同意はなんとも言い難い気持ちだった。
なんか申し訳ないような悪いことしてるような複雑な感じだった。
ドナー候補は複数いるかも知れないし、自分だけかもしれない。
もし自分だけしかいなかったら、自分が断ればまたドナーを探すことになる。
自分はそれは見過ごせないと思った。
多分、断ったら一生後悔するだろう。
職場や兄に伝えた思いそして道のり
職場の所長や上司に伝えた。
福祉の現場というのもあり、理解を示してくれて協力してくれることになった。
ドナーで休むことの理解は、他の職種だと理解されなかったかもしれない。
その時の職場環境は恵まれていたかもしれない。
骨髄ドナーになる条件は揃っているのに、仕事が休めない理由で断る人は多いらしい。
親からの同意、職場からの同意を得て、あとは身体検査等を行っていきドナーになれるか、なれないかの話になる。
コーディネーターと連絡を取りながら、最初の確認検査の日が決まった。
封筒が届いてから約3週間後だった。
検査の日程調整もあるから、早め早めに連絡や意思を伝えないといけないと感じた。
兄にも電話で骨髄移植について話をした。
不安があることは言われたが、反対はされなかった。
○○(私の名前)の意志を尊重すると言ってくれた。
背中をおされた。
そして気持ちが固まった。
確認検査当日、コーディネーターと待ち合わせをしていた。
思いを聴いてくれたり不安な時は寄り添ってくれた。
ドナーになるまでいろいろととてもお世話になったのを覚えている。
その日は無事に検査が終わり、結果を待つことになった。
一週間ぐらいかかったと思う。結果は大丈夫だった。
次はドナー選定をするらしく、選定結果を待つことになる。
いよいよ、ドナーに選ばれるか選ばれないかの時期になった。
選ばれなかったらそれまで。
だが適合した事実。
いまさらながら人生ってこういうこともあるんだなと。
テレビなどでありそうだけど、実際こういう状況になると真剣に考えて祈ることしかできなかった。
確認検査の結果から、約1週間後のこと。
ドナー選定の結果がきてドナーに選ばれたとの連絡があった。
実際に選ばれて、なんともいえない気持ちだった。
自分がドナーになるなんて。
不安や緊張がでてきたが、しっかりドナーとして行動しないといけないという責任感のほうが大きかった。
体調管理など、今まで以上に気をつけなけばならない。
絶対に無事に移植できるようにと願った。
最終同意
ドナーに選ばれると最終同意がある。
最終同意を交わして初めて正式にドナーになる。
移植日も決まってきた。
手術する病院は隣県になった。
それは時期的に手術室が埋まって厳しいようだったから。
最終同意は、確認検査を行った病院で行う。
親も同席である必要があった。一緒に病院へ向かう。
最終同意を交わせば、断ることができない。
わかってはいたが、緊張してきた。
今も不安や怖さは完全には消えてはいない。
最終同意をしない選択肢もある。
ここまでの段階は逃げてもよいもの。
ここから先は、、。
これまでのことを思い出す。
そして自分はどうすればよいか、あらためて考える。
今までで一番大きな決断だったと思う。
ただ思ったのは最終同意を交わさないのは違うということだった。大切な何かがなくなるそんな気がした。
だんだん不安が消え、交わさないほうが不安になってきた。
もう最初から覚悟はできていた。
後は前に進めばいい。
「親も傍にいる」。
「何も怖いものはない」。
最終同意ではドナー、家族の代表、そして第三者の立会人に、コーディネーターと調整医師から今回の骨髄提供について説明がある。
骨髄、末梢血幹細胞の提供はドナーの自由意思なので、最終同意前はいつでも辞退ができた。
しかし、最終同意書に署名と捺印後はそうはいかない。
それは、患者さんの治療に影響するなどの重要な意味を持つから。
1人だけでこの責任を考えていたら、背負いきれなかっただろう。
「支えてくれる人がいる。」
あとは勇気を出して一歩踏み出すだけ。
親はドナーの候補の時から同意してくれていたので、説明を聞いても反対はされなかった。
面談ではドナーとして今後のことを詳しく説明されたと思う。ただ順調にいってほしい思いだった。
面談の最後にドナーと家族代表である父、そして第三者の立会人として病院の看護師が「骨髄提供に関する同意書」に署名と捺印を行い最終的な提供の意思確認をした。
SNSで知った骨髄移植への思いはかけがえのないつながり
正式にドナーになり、手術に向けた準備が始まった。
どのくらいの人が骨髄バンクに登録しているのか、ドナーになって提供した人の話を聞きたいと思った。
当時、Facebookをやっていたので調べてみた。
ドナー経験者の方の話や骨髄移植をして病気を克服した話などの記事を見つけた。
そして、目に留まった内容があった。
それは、マラソン大会などでたすきをして骨髄ドナーについて呼びかける人たちだった。
その頃に地元のマラソン大会に参加をしていたので、興味をひかれた。
かっこいいと思った。
ちょうど今回の骨髄提供の話があった年、東京マラソンに参加予定だった。
提供より前に大会があったので参加したいと思っていたが、骨髄提供を選んだ。
後悔はしていない。
東京マラソンの抽選より、適合するほうがはるかに難しいだろうと思った。
そのFacebookの記事には、経験した人にしかわからないことがいろいろと書いてあった。
提供後のことでは、腰の重い痛みが数日あったり、麻酔明けは貧血気味であまり動くとたちくらみなどしたと。
いろんな症状があったりするが、数日で治ることがほとんど。
いろいろ知れてよかった。
骨髄提供した人が患者さんになることもあり、またその逆もあった内容に驚いたこともあった。
人と人とが助け合うことで、世の中がまわっていることの意味を感じた。
ある記事のドナー候補の方は、家族に反対されていた。
自分が患者になり、自分がドナーさんに助けてもらうことがあれば、ドナーにならなかったことを後悔するだろうと。そのような思いを家族に伝えていた。
強い意志が家族を動かしてドナーになり提供されていた。
ドナーとして多くの方がいろんな問題に向き合い、そして患者さんも必死で病気と闘っている。
自分だけじゃない、多くの人が強く思って向き合っていること。
その思い。自分も繋がろうと思った。
ドナーとして歩む道
ドナーになったものの、体調が悪ければ期間が延びたり、最悪中止になってしまう。
そうなれば、患者さんの日程が延びて負担がかかってしまう。
・基本的なうがいや手洗いと無理をしないこと
・神経質などにならないように普段通りの生活を送ること
この2つが基本的に大切だと、ドナーを経験した方やコーディネーターから教わった。
入院前に、通院は2,3回行うことになっていた。
術前検診と自己血採血と呼ばれるものを行う。
自己血採血は、骨髄採取後の貧血を軽減するため必要に応じて血液を事前に採血しておくもの。
術前検診は問題なかった。
術前検診の普段の検査と違うところは肺機能検査があり肺活量などを調べる必要があること。
少し緊張したが無事に終わった。
手術まであと約1か月になり、残りは麻酔科からの説明や自己血採血を残すことになった。
麻酔の説明やサインなどがあったりと、少し不安にはなったが今の体の状態や既往歴をしっかり伝えたと思うから大丈夫と自分に言い聞かせた。
自己血採血は、2回行った。
採血だけだったが普段より多めの採血だった。
骨髄採取まで、3週間をきった。
骨髄採取の日程は、採取日前日に入院して採取になる。
順調にいけば手術して2日後に退院。
仕事は入院の日から一週間休むことができた。
職場のみんなには本当に感謝しなければならない。
「ありがとう」。
ドナーになるまで、家族や職場との話や通院などいろいろあり、いろんなことを考えた。
「不安や緊張もあるけど、、。」
「ここまで来れてよかった」と思った。
誰かのための思い
入院当日、体調は良好。
採取日には父が来てくれる。
病気やケガでない理由で初めて入院した。
不安や緊張が大きくなっていく。
手術、全身麻酔。
自分は意識がなくなる。
どれも初めての経験だった。
そんな時、友達やFacebookでつながった人たちから励まされた。
いつも支えてくれる親友の応援で元気が出てきた。
前に進めば大丈夫だと自分に言い聞かせた。
ふと、もし自分が死んだらと考えた。
家族や友達や職場の人も悲しむだろうか。
人はいずれ死ぬ時がくる。
しかしいつなのか誰にもわからない。
本当の意味で命に向き合ったことで、
人は生き方も大事だけど、死に方も大事だと思った。
手術には少なからずリスクはある。
骨髄バンクドナーとしての手術の安全性は資料などを読んで高いと思っていた。
しかしいざ手術となると不安はでてきた。
自分だけは今回のことで、もし死んでもいいかもしれない。
そんなことも考えた。
もちろん死にたくない。
けど、誰かのために行動して死ねるなら自分は後悔はない、むしろかっこいいと思った。そんなだいそれたことも思った。
死ぬつもりはないけど、そうなったら自分は本当に受け入れられるだろうか、、。
患者さんのためにも、ドナーが元気でいてくれることは望みのはず。1人で勝手に考えてはいけない。
「死ぬわけにはいかない。」
覚悟を決めた前日だった。
そして骨髄採取の当日、父が来てくれた。
ドナー適合の知らせが届いてから、ここまでくるのに3,4か月かかった。
あとは無事に手術が成功するのを祈るしかない。
手術室の前まで、父と一緒にきた。
とても心強かったのを覚えている。
「ここまで育ててくれてありがとう。
人のためにここまでこれたよ。」
「患者さんの病気が治るように頑張っていってきます。」
手術が始まり、説明を少し聞いた。
体勢はうつ伏せで行い、腸骨から骨髄を採取する形だ。
手術の際に尿道カテーテルというものをする場合があるが、当時の採取施設ではしなくてもよいとのことだった。
尿道カテーテルを抜くと痛いと聞いたことがあり、不安の一つだった。
そしていよいよ麻酔が入るとのことで、無事に終わることを願った。
全身麻酔が終わるまでの体感は、ほんの数分に感じるらしいとは聞いていた。
麻酔を入れ始めてから数秒ぐらいで意識がなくなったと思う。
意識がなくなる前にいろいろなことが頭をめぐっていた。
「初めて入った手術室、そして手術台。ドナーにならなければ経験しなかったかもしれない。」
「今までの思いとか、父が手術室前まで傍にいてくれたから不安は小さかった。」
「しかし患者さんの不安ははかりしれないだろう。」
麻酔がきれて目が覚めた。
麻酔すると時間は一瞬に感じると聞いていたが、
本当に数分しかたってない感じだった。
目が覚めて、医師より無事に手術が終わったと伝えられた。
「よかった」。それだけを思った。
大きな役目は終わった。安心して目を閉じた。
麻酔から覚めてすぐ眠気が襲い寝てしまった。
1,2時間は手術をしていた。
次に目が覚めたときには、酸素マスクや点滴、足にフットポンプと呼ばれるものがされていた。
寝返りができない。しばらくはこのまま。
少し体を動かすと吐き気が出てきた。
適合の知らせ時に入っていたハンドブックに喉の痛みや吐き気、熱などが出ることがあると書いてあった。
1~2日でおさまるとのこと。
前に貧血を起こした感じだった。
「いろいろ体につながれて患者さんの気持ちがわかった気がする。」
少しでも体を動かしたら吐き気がするのでしばらくは動けなかった。
コーディネーターも駆けつけてくれて、寄り添ってくれた。
じっとしていると大丈夫だが、少しでも体を動かすと気持ち悪くなってしまうのでほとんど話すことはできない。
父もいてくれているが安静にすることしかできず、「大丈夫」と伝え遠いところから来てくれたのでさよならした。
たしか酸素マスクなどがはずされる頃の時、無事に骨髄が届けられたとの話があった。
「本当に良かった。」
無事に病気が治ることを願った。
18時頃に食事だったが、その時間に食事は食べられなかった。
術後よりは良くなったが食事のときはまだ吐き気があった。
吐き気がだいぶなくなったのは、夜の11時頃だったと思う。
それまで少し動けば気持ち悪かったりして少し大変だったけど、良くなった。
腰の痛みもほとんどなく少し重い感じがする程度だった。
退院は明後日の予定。
退院できるようにしっかり体をやすめよう。
手術の日の翌日は、吐き気がはなくなりご飯も3食しっかり食べられた。
退院の日、父が迎えに来てくれる。
隣県の病院なので、時間は少しかかる。
「遠くからありがとう。」
病院のスタッフやコーディネーターにもいろいろお世話になった。
自分だけでなく多くの方の協力があってこそ誰かの命が救われたのだと思う。
ドナーになって本当に良かった。
手紙が運んできてくれたもの
退院後はコーディネーターが電話で体調を聞いてくれたり、術後の検診があった。
仕事は退院してから3日後には復帰ができた。
特に体調不良もなく時が過ぎていった。
手術から2ヶ月ぐらい経ったある日、コーディネーターより、患者様から手紙が届いたと連絡があった。
手紙は地区の事務局やコーディネーターが仲介してやりとりができる。
個人が特定されないように名前や住所が書けないこと、採取後2年以内に2回までのやりとりといった約束があった。
その約束で、善意としてだけの意味が保たれる。
顔や名前がわかったらそれ以上になってしまうのが人間の常だろうと思う。
ドナーとして役に立った、ただそれだけが大事。
お互い顔も名前もわからないのは悲しい感じもするが、それが一番いいのかもしれない。
数日して、手紙が届いた。
手紙には感謝のお言葉と無事に退院できたことが書いてあった。
「とても嬉しかった。」
ここまで行動してきたことは間違いではなかった。
術後の吐き気は少し大変だったけど、それ以上に病気と闘う患者さんが大変だったはず。
手紙の返事を書いた。
感謝の言葉をたくさんいただいたが、自分もドナーを通していろんなことに気づき、考え、成長させていただいた。
私からも感謝の言葉を綴った。
お手紙をいただいて感じた、たくさんの人の思いが繋がり今があること。
一人でも欠けていたら実現しなかったかもしれない。
自分だけじゃ何もできなかった。たくさんの人の思いがあって患者さんの命が救われた。
たくさんの思いの中に、ドナーとして自分を入れてくれたことに誇りを感じた。
このような経験ができたことで大切なことをいろいろ知ることができた。
これからもいろんなことがあると思うけど、この経験を絶対に無駄にはしないようにしたい。そう強く思った。
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