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ミニマリスト英語講師の自己紹介

はじめまして。ミニマリスト英語講師です。

オンラインで英語教育サービスを提供しています。

LINEチャットを使った発音コーチングサービスを新たに展開しているのですが、過去にはオンライン英会話講師などもしておりました。
そのときの経験はまた別の記事で詳しく書けたらと思っています。

というわけで今回は、私のプロフィールや記事に興味を持って訪問してくださった方に、私の経歴、英語に関連するところを主に紹介させていただこうと思います。

興味があるところだけでも読んでいただけたら嬉しいです。


幼少期

サトウキビ畑に囲まれた自然豊かな場所で生まれ育ちました。米軍基地がほど近いところにあり、近所にはアメリカ人教師がいたり、私の出生時はアメリカ人医師が立ち会ったとのことで、英語は比較的身近な言語だったように思います。

私が1歳半くらいのころ、母の知り合いのアメリカ人教師が家に来た時に、"apple"を/ˈæp.l̩/とアメリカ英語そのままで聞き取り再現していたと母から聞きました。

それが母の英語教育への熱意を後押ししたのかは定かではありませんが、私が3歳くらいのころでしょうか、公文の英語教室につれて行かれました。

覚えているのは、楽器や動物などの絵が描かれた磁気カードを専用の小型機器に通すと、"♬~ This is a piano."という風に、ちょっとしたメロディと短いセンテンスが流れてくるというものがありました。ご存じの方いらっしゃるでしょうか?

この機械で遊ぶのはとても楽しかったのですが、なぜだか公文に行くのが大嫌いで、3歳にして通学拒否をするという自我っぷりを発揮していました。

このときから「自分は英語が好きではない」という思い込みが始まってしまったような気がします。

学童期

小学校入試を経て、英語の授業が週2~3回ある私立小学校へ入学します。

1年生のときから、アメリカ人のネイティブ講師と、日本人のバイリンガル講師が英語の授業を担当していて、単元ごとにペーパーテストもありました。

定期的にスピーチコンテストがあり、嫌々出場させられた記憶があります。近所のアメリカ人教師の前で練習させられたときは本当に苦痛でした。スピーチやスピーキングはあまり好きではなかったように思います。
親が英会話講師というような同級生が他にゴロゴロいたので、そういう子たちが賞をとったりしていました。

小学校卒業時に英検3級に合格できていたので、小学校6年間で中学で学習するレベルの内容は終えていたと思います。

中高時代

中学受験を経て、私立の中高一貫進学校に入学しました。

進学校とはいえ中学から初めて英語を勉強する人も多く、私は小学校6年間の貯金だけで英語の試験を無双できていました。帰国子女の子と、同じ小学校だった子の3人でいつも上位3位を占めていた気がします。

中1で担当してくれた英語の先生が、イギリスの大学院に留学した経験から、発音記号と発音をしっかり教えてくれたのはとてもラッキーでした。
数学の公式のように、発音記号を見ればどのように発音すれば良いか分かるというのは当時の私にとって斬新で画期的でした。

その先生は普段飄々としているタイプでしたが、生徒からの質問には真摯に答えてくれました。その先生が英語を担当してくれたのが中学3年間と高校の1回(たしかWritingの授業)だったと思うのですが、いつも分かりやすく、先生が黒板に書く様子など今でも覚えています。

大学受験期には、Z会を受講しつつ、東大の過去問などでひたすらWritingの勉強をしていました。人が多い場所が苦手で塾に通ったことがなく、それまで地頭だけで試験をこなしてきたせいで、英語の勉強方法というものがよく分かっていませんでした。そのため単語帳を周回して覚えるというようなことをしたことがありませんでしたが、長文や英作文の勉強をしていたので、センター試験(当時)では200点満点中190点くらいは取れていました。
英語は好きでもないし得意でもないけれど、勉強したから多少できる」くらいの認識だったと思います。

大学時代

親元を離れて名古屋へ行きました。大学に入ってすぐの頃、教養科目の一つで英語の講義がありました。このときの担当教官の先生もイギリス留学経験があり、発音の重要さをしっかり教えてくれました。「自分の耳には聞こえていなくても、ちゃんとその音を出すための口の形、舌の位置を意識すると、ネイティブには通じる」と教えていただいたのが印象的でした。

次のセメスターの履修登録をするときに、その先生の科学論文執筆の講義があると知りました。「せっかく勉強してきた英語をもっと伸ばしたい」という思いで、大学院生に交じって講義を受けました。

Writingの宿題が毎回のようにあり、なんとかこなしていたのですが、あるとき先生に「英語圏にいたことある?そんな感じがする文章が書けている」と言われて、とても嬉しかったのを覚えています。そのときは海外はおろか、地元を離れたばかりで、東京ですら2回しか行ったことがないくらいでした。

当時はインターネットこそあれど、現在のようにChatGPTに手伝ってもらえるわけでもなく、オンライン英会話もありませんでした。大学入学後に特別英語の勉強をしていたわけでもなかったので、小中高までの勉強がきっと生きていたんだろうなと思います。本当に先生に恵まれました。

大学院時代

大学4年から研究室に配属され、定期的に英語論文を読みその内容を分かりやすくまとめてプレゼンするという輪読会が始まりました。
ここでかなり英語を「読む」機会が増えたと思います。また研究でMATLABという統計ソフトを毎日のように使っていて、コードを調べたりするのに英語を読む必要がありました。

そして修士1年のころ、カナダへ短期語学留学に行きました。これはスポンサー企業が私の在籍していた学部・大学院から希望者を募って審査し、渡航費や滞在費、学費すべて無償で語学留学を経験できるというものでした。

カナダにあるUniversity of Northern British Columbiaという公立大学のESLのクラスに入りました。大学入学予定の学生が、入学前に英語力の水準を満たすために英語の基礎からプレゼンスキルまで総合的な英語力を身につけるためのクラスです。

サウジアラビアや韓国から来ている18~19歳くらいの学生さんたちばかりで、当時すでに日本で学士取得していた私は異色の存在ではありました。

クラスはイギリス人の先生が担当してくれたのですが、私が真面目に課題に取り組む姿勢をとても評価してくださっていました。当時の私にとっては先生から課される課題が多く、ホームステイ先の地下室で黙々と課題をやっている時間が長すぎて、ホストファミリーのお父さんに「もっと人と話す機会をつくりなさい」と注意されたほどでしたが、プレゼンスキルの授業でクラスの前で実践したときに、先生からは「教えたポイントを全て押さえた発表ができていて素晴らしい」と褒めていただけました。
今考えるとかなり流暢性の低いプレゼンだったのですが、言われたことを素直に聞いて真面目に実践することは心掛けていました。

相変わらずspeakingはガチガチで「流暢」とは程遠いものでしたが、重い課題を通してreadingやwritingで英語にたくさん触れて正しい文法でアウトプットする練習は、総合的な英語力を高めるうえで不可欠だと感じました。滞在の終盤のときに、寝ている間に流していたサウンドトラックがいつの間にかTOEICのリスニング問題集の音声に変わっていて、寝ぼけながら「もっと早く喋ってよ。」と現地の人との話すスピードとの差に驚いたくらいにはlisteningも向上していました。帰国後にノー勉で受けたTOEICは715点でした。

そして就活の時期、私が目指していた製薬業界のトップ企業はTOEICの足きりが730点でした。800点を目指す単語帳で勉強して、なんとかギリギリ735点を取ることができました。このときTOEICの勉強法というものがよく分かっておらず、時間を計って模試を解いたり復習したりということは全くしていませんでした。

大学院時代は一度海外学会にも参加させていただきましたが、ドイツ人研究者から質問されてうまく答えられず、短期留学だけではまだまだ勉強不足、練習不足を痛感していました。それでも、一生懸命伝えようとするところを気に入ってくれたのでしょうか、学会後のツアーで声をかけてくれて一緒に食事したり写真を撮ったりしました。教授がそのドイツ人研究者に、私の英語を理解できたかと尋ねたところ、"Absolutely!"と答えてくれていてほっとしたのを覚えています。まぁ社交辞令だったとは思いますが。

そんなこんなで大学院を修了し、英語論文も一報出すくらいには英語での読み書きに抵抗がなくなってはいました。

会社員時代ー研究職編

医薬品メーカーの研究職として仕事を始めます。世間知らずな私は就活を始めたころに知った会社でしたが、日経新聞を読んでいるようなエリートであればだれでも知っている大企業の一つで、東大京大をはじめ国公立の薬学部や研究科を卒業した優秀な人たちばかりが集まる恐ろしい場所でした。同期には開成や筑駒出身の人たちもいました。

私が所属していた部署の皆さんもかなり英語力が高く、部署のTOEICスコアの平均が850点とかでした。隣の席の超優秀で超美人な先輩は、昼休みを削ってTOEIC SWの勉強をしていて、正直場違いなところに来てしまったと思いました。

配属された研究所では、全体の報告会のプレゼンを基本英語で行っていました。1年目の夏ごろに私も初めてプレゼンすることになり、オンライン英会話レアジョブで、当時は音声のみでレッスンを受けて練習していました。

そして迎えた発表本番。昔からなぜか比較的本番には強い方で、先輩方の力も借りながらなんとかプレゼンを終えました。報告会終了後、超優秀な先輩たちが私の元へ来て、「プレゼン良かったよ。めちゃめちゃ発音良いね、帰国子女?」と声をかけてくれてとても嬉しかったのを覚えています。「英語力はまだまだだけど、発音で周りと差をつけられる!」と、優秀な人たちの集団の中で、少しだけ自分らしい強みを見つけられたような、そんな気がしました。

しかし、会社員としての研究職時代は、苦手なことも日常的にこなさねばならず、毎日会社にいるだけでかなり疲弊していました。結婚するころには子宮内膜症を患って救急外来に駆け込むほど体調を崩すこともあり、「もう退職しよう」と考えていました。

会社員時代ー企画職編

結婚の報告と同時に、退職する意志を直属の上司に伝えました。さらにその上の上司にも相談してくれて、同じ研究所内の企画職に異動してもらうことになりました。

当時は異例の人事だったので、発表された直後は周りから「もったいない」「希望したんだよね?」などとよく声をかけられました。

異動先の部署は付き合いが長い人たち同士で、それぞれ家庭があり育児をしている方々が多く、とてもアットホームでした。今でもその方々から受けたご恩は忘れることはありません。

そしてその部署が担当する社内学会のようなイベントの企画に携わりました。社内TOPや海外グループ会社の人たちも招待するもので、英語で開催されます。英語は大してできないけれど、発音が多少良いというだけで、その司会を務めることになったのでした。

司会は基本的に原稿があるので、それをひたすら練習していました。練習の甲斐あってか、何とか司会を務めあげ、参加されていたマネージャーや先輩たちから「きっと英語を英語のままりかいできるんだろうなぁ」などと、英語力が高いと勘違い評価をされてしまうのでした。

こんな感じで英語と関わってきた私ですが、その間に出産・育児も経験し、仕事に対する自分の能力にずっと限界を感じてしまっている状態でした。子どもが熱を出して看病し、治ったと思ったら自分が罹ってしまう・・・というサイクルが毎月のようにありました。

時短勤務もフルタイム裁量労働もどちらも経験しました。当時2歳の子どもの夜泣きやイヤイヤ期で疲弊していても仕事をしなければならず、明け方から在宅勤務をして日中出社して、保育園お迎え後は家事をして、子どもが寝たらまた在宅勤務をして・・・というような生活をして心も体も限界を迎えていました。布団の上で這いつくばってキーボードをたたいているようなときもありました。

そして子どもが保育園卒園間近となり、次の入園先や預かり保育先を決めるのに追われていた時、「ここまでして働きたいか?」とふと思ったのでした。

答えは明らかでした。そんなこんなで退職を思案していたとき、コロナ禍真っただ中で夫のアメリカ転勤の話が上がってきました。

「これで合理的に退職できる!」と嬉しかったのを覚えています。正式な辞令が出るのと同時に、遂に退職しました。

同じころ、「仕事に忙殺されるだけの人生はいやだ。自分がやりたい勉強をしたい」と、インターナショナルモンテッソーリ教師資格の勉強を始めました。

North American Montessori Centerという機関がオンラインで提供している講座で、教材もアサインメントも先生とのやり取りも、すべて英語でした。仕事の合間に時間を作って勉強するのは本当にわくわくして、毎回期日までにやり遂げるのは大変でしたが、本当にやりたいことを勉強している自分を好きになれました。

そして渡米直前に講座を修了して全単元A評価で合格ことができ、渡米後の新しい住所に送ってもらったCertificateが届いたときは、とても誇らしい気持ちがしました。それがアメリカ生活のスタートとなります。


渡米後から帰国までの駐在妻時代、そして今現在に至るまでのこともまた書いていきたいと思いますが、かなり長くなってしまったので一旦会社員時代までで終えようと思います。

ここまで読んでくださりありがとうございました。少しでも興味をもっていただけたら嬉しいです。

それでは、良い一日を。


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