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日曜日は教会へ

私は週6日(月曜から土曜)は、だいたい自分の研究室で仕事をしています。学者とか研究職の人は、多かれ少なかれ、「なんか知らんけど、のべつ仕事関係のことをしたり考えたりしてる」という人が多いんじゃないかと思います。

とくに私の場合は、論文執筆も講義も、私にとっては非母国語である英語でしないといけないので、土曜日も働いてやっとこさ人並みにできている、って感じです。

まぁ、だらだらしていることも多いので、生産性はそう高くないかも知れません。学者志望でなかった人間が、たまたま学術職なんかについてしまうと、ついつい横着かましてしまいます(え、私だけ?)

ただし、よほど差し迫った状態でない限り、日曜は仕事をしません。勤務先である大学の電子メールも見ないようにしています。

人間、休みは必要です。
頭も体も定期的に休ませてこそ、働き続ける意欲がわこうってもんです。

じゃあ葉隠は日曜はひたすら寝てるのか、というとそうではなく、
日曜日は、教会の礼拝に欠かさず通っています。何を隠そう、クリスチャンなんで。

信仰にいたった経緯

小学生の頃、同じクラスの友達に誘われて、近所の日曜学校に行ったのが最初のきっかけですが、中学・高校の間は教会から離れていました。

が、その後、立ち返って、洗礼は28歳の時、日本で受洗しました。プロテスタントのバプテスト派の教会です。現在は、地元の英国教会に通っています。

日本で受洗した、とイギリス人に言うと、すごく珍しがられます。
「え、イギリスじゃなく、日本で?日本にキリスト教の教会なんてあるの?」って。日本はいまだに鎖国してるとでも思われているんでしょうか。

確かに珍しいですけどね。日本はクリスチャン人口がハンパなく低いですから。

クリスチャン家庭に育ったわけでもないのに、なぜ信仰を持つに至ったか、という話は長くなるので割愛しますが、まぁ人間、28年も生きていれば何かしらあるわけですよ。

20代後半といえば、仕事でも人間関係・恋愛関係でもいろいろあります。(これを書いている現時点では、すでに私は50歳なんで、もっといろいろあったわけですが)

それに追い打ちをかけて、1995年には阪神大震災もあったし。
地震に遭遇して死の恐怖に直面したとき、いま死んだら私は間違いなく地獄に行くだろうと思いました。

その瞬間、私の頭をよぎった言葉、というか声にならない叫びは、「助けて下さい、(死ぬのは)まだです。今ではなく」、でした。

じゃあ、いつならいいのか、そもそも誰に向かって助けを請うているのか。

地震がおさまった後、それを考え続け、牧師夫妻の導きにも助けられて、震災から11ヵ月以上たった 1995年のクリスマス・イブに受洗しました。

クリスチャンであることが意味するもの

宗教なんぞを信じてる奴は精神的に弱い、と言う人がたまにいますが、実際はその逆で、確固とした信じるものがある、というのは強いです。

私は過去20年間、ひとりで海外を移り住んできましたが、信仰があったからこそ今までやってこれたと確信しています。

あと、宗教は非科学的、と言う人もいますね。でも、クリスチャンの科学者って、いくらでもいますよ。人間という知的かつ精巧な生き物や宇宙の法則が、偶発的に自然発生したと思うことのほうが非科学的な気がします。

このへんの議論は、それこそ何世紀にもわたってさんざんなされてきたので、そっちを参照して下さい。からんで来られてもスルーします。

「キリスト教徒たる者が、そんな横着な態度でいいのか」とお叱りを受けかねませんが、そもそもクリスチャンって、「善人」を指すわけじゃないですよ。(当然、善を行う者であるべきですが)

クリスチャンと言うのは、「罪を許された者」です。

イエス・キリストの十字架上の死という大きな代償と引き換えに、その贖罪を受け入れ信じることによって、いっさいの罪を許してもらった者、それがクリスチャンです。

震災にあい、そして洗礼を受けた1995年以降の私の人生は、まったくもって賜物だと思っています。だからこそ、精一杯生きるべきだと感じています。

自分の人生がこの先いつまで続くか知る由もありませんが、私が毎週教会に通うのは、自分の出発地点を思い起こす良い機会でもあるからです。

信仰を持たない人がいきなり教会へいくのはハードルが高いと思うので、興味のある方は、まず聖書を読んでみることから始められたらいかがでしょうか。

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