日本語文化の根底にあるもの
情報科学の分野で、オンライン上のコンテンツを統計学的に分析する研究があります。
とあるイギリスの大学がそれ専用の学術ソフトウェアを開発したらしく、「いろんな分野の研究者に試してもらって意見をききたい」と、うちの学部にも依頼してきたので、私も使ってみました。
このソフトウェアは Twitter のテキスト分析に特化したものと言うことなので、今年の正月明けは、私にしてはかなり熱心にツィッターを使いました。
わたしはツィッターをあまり使わないのでアカウントを消そうとしていたんですが、ツィッターの機能やデータ・フローのメカニズムを詳しく知るよい機会となりました。
でも、それ以上に興味深かったのは、日本語でやりとりされているツィートの内容です。今回、初めてそれを目にして(それまで英語のツィートしか見ていなかった)、かなりカルチャーショックを受けました。
その顕著な点は、「異なる意見や波風をたてることは断じて受け入れない」という日本人の態度です。
正論が叩かれる日本
私がとくにびっくりしたのは、「慰安婦像」とそれに関わる韓国叩きです。
そもそも、韓国の民間団体が自国に慰安婦像を設置することに対して、なぜ日本政府が過剰反応するのか、ということ自体が不思議ですが、もっと驚いたのは、日本政府の対応を批判する日本人のツィートが、凄まじい攻撃をうけていることです。当然、攻撃しているのも日本人です。
これ、アルゴリズム解析をみると(みるまでもないですが)、はんぱじゃない量のツィートです。
日本の対応を批判しているのが外国人(非日本人)、とくに韓国の人である場合には、その激しさがヒートアップしています。
海外に住む私が客観的に見る限り、日本政府の対抗措置を疑問視する彼らのほうが、国際世論に即していると思われるのですが、日本語の世界ではそういう見方が逆に袋叩きにあっている印象をうけます。
なかには、「日本を批判するお前らの民度が低い」とか、「日本人みたいになりたいけどなれないからヒガんでんの」などという、「アホ言うお前がアホじゃー」としか反論できない子供の喧嘩レベルのツィートもあります。
(今どき、日本人みたいになりたい外国人がいるとは思えませんが)
日本では、えてして中立や中庸がよしとされますが、これは実際には、多数派・保守勢力にかなりすりよった形の中庸であることが多く、少数派は意見を言うこと自体に勇気を必要とします。
また、まっとうな批判と単なる文句・悪口の区別ができない人が日本人には多いようで、批判の内容をよく吟味もせずに、日本政府を批判すること自体を糾弾している人なんかもいます。
批判精神が育たない文化
事なかれ主義の日本においては批判精神が育たない、と言われて久しいですが、もっと問題なのは、異なる意見に耳をかさず、建設的な議論がまともにできない、という点です。
作家の半藤一利氏の言葉を借りると、「似た考えの仲間だけで同調し合い、集団化し、その外側にいる者に圧力をかける」という態度です。閉塞的な環境にいる人ほどこの傾向が強いと言われています。
自分軸がない人は、たやすく同調します。そのほうがラクだからです。ですが、同調はできず、とはいえ、発言する勇気も機会もない少数派や弱者は、陰口や愚痴というかたちで内向化していきます。
ですが、多数派の意見や、ムラ社会的な狭い範囲で影響力のある人が、必ずしも正しいとは限らない、というのは、昨今の国際情勢をみても明らかです。
悲しいことに、多くの日本人は、国際問題や社会情勢などの複雑なことがらを英語で読んで多面的に比較検証して考えるという力に圧倒的に欠けています。これは、日本から来ている日本人留学生を見ていて特に感じます。
あと、複数の人がツィッターで述べていたことで心配になったのは、国内の世論やブームを一定方向へ操作する日本メディアの偏重報道が、だんだん強まっているという点です。
私はふだん、日本語のニュースといえば日経電子版の第一面を斜め読みする程度なので、正直な話、日本の一般社会やメディアの動向については、ずいぶん長いあいだ無頓着でした。
年明け早々からの不穏な流れが現実のものならば、アメリカやEUだけでなく、日本もかなり危うい方向に向かっている気がします。
いま求められているのは、自分のことばかりでなくもっと広い世界に目を向けて、発言する勇気をもつことです。