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クリスティ失踪事件と、それを巡るフィクションの妙

ミステリーの女王、突然消える

1926年12月3日、アガサ・クリスティは自宅を出た後、忽然と行方をくらました。彼女自身が書くミステリーさながらに。そうして始まるのがイギリス最大と言われた人探しの一大捜査。日夜、新聞はセンセーショナルに事の成り行きを報道する。一般庶民はにわか探偵と化し、あれやこれやと自説を披露する。

失踪から11日後、彼女は、イングランド北部、ヨークシャー地方にあるハロゲイトのホテルで発見されるが、生涯、失踪についての理由や詳細を語ることはなかった。その間、記憶を失っていたなどと言う話もある。よって、この事件は今なお多くの憶測を呼んでいる。真相は彼女の墓の中に封じ込まれたまま。

彼女の失踪の背景には、当時の精神的な負担があったなどとされる。特に、最愛の母の死と、夫アーチボルド(アーチ―)からの離婚の申し出が重なったことが、大きな要因だった可能性が高いらしい。そうした状況から逃れるため、彼女は、自宅からは遥か離れたスパタウン、ハロゲイトへと身を寄せたのかもしれない。

映画「アガサ 愛の失踪事件」

当然ながら、この失踪事件は後世の創作意欲を刺激。1979年の映画『Agatha』(邦題:アガサ 愛の失踪事件)もその例だ。ヴァネッサ・レッドグレイヴがアガサ役を演じ、ダスティン・ホフマンが彼女を追うアメリカ人記者として登場する。

この映画は「クリスティの失踪の謎に大胆な仮説を加えたフィクション」として作られたものの、彼女の親族や関係者は激怒したという。しかも撮影が始まったのは、彼女が亡くなってから、すぐ後のこと。

映画内では、クリスティは夫の愛人ナンシー・ニールの後を追ってハロゲイトにやって来るという設定だ。そして、あたかも、ナンシーを殺害する計画を立てているような行動をとる。ホフマン演じる記者は、スクープを狙い、身元を偽るクリスティに接近するが、次第に彼女に恋心を抱き始める。そして、その謎に迫り、彼女の計画を阻止しようとする・・・という内容。

私がはじめてこの映画を見たのは、日本でのテレビのロードショーだったと思う。

覚えていたシーンは二つ。ひとつは、朝食のテーブルで、アーチ―に離婚を迫られたクリスティが、「行かないで!」と、部屋を去ろうとする彼の足にしがみつくシーン。もうひとつは、小柄なホフマンが背の高いレッドグレイヴとダンスをするシーン。背丈の違いが20センチはあろうかと思われ、子供心に焼き付いた。

映画を見直して

この映画を、久しぶりに見直してみた。

映画の内容自体は、説得力に欠けたロマンス要素と筋書きのため、三文小説のような印象を持った。新聞記者が、スクープを狙い、素性を隠す有名人を追っているうちに彼女に恋し、記事などどうでも良くなっていく・・・これって、どっかで聞いたことあるぞ。そうだ、「ローマの休日」風!ただし、この「ハロゲイトの休日」の方は、物語としての質はずっと落ちてしまっている。

それでも、飽きずに面白く見たのは、1920年代という時代背景が魅力的に描かれ、当時の社会風俗を垣間見られたせいだと思う。ファッションやインテリアなどが細かく再現されているのも楽しい。ベル型のクロシェ帽や、短めのフリンジ付きドレス、チャールストン。

また、クリスティがホテルのレストランで、ヘア・スープ(ノウサギのスープ)をウェイターに勧められて頼むシーンには、にやりとしてしまった。こういうものをメニューにあげているレストランは、もうあまりないだろう。

当時のスパでは電気治療なども受けられたようで、怪しげにして、危なげな、電気治療の様子も映画に出てくる。もしクリスティが、この間、本当に記憶を失っていたとしたら、それはストレスによるものというより、スパの電気椅子に座って、ビビビッと受けた電撃ショックのせいだったのでは…? などと勘ぐってしまう。

当然、今のハロゲイトで「電気療法お願いします」と言っても、やってくれるところはない。

製作が始まってから、脚本の改変があったとかで、これがホフマンを怒らせ、彼が映画会社を訴える騒ぎになったという逸話もあるようだ。残念ながら、彼が新しい脚本の何を嫌がったのか、信頼できる証拠は探せなかった。が、それこそ、自分のキャラクターに、不自然なロマンス要素が加えられた点だったかもしれない。

クリスティの実際のハロゲイトでの休日

実際のクリスティの失踪は、映画ほど劇的では無かったはずだ。彼女はハロゲイトで静かに温泉療養をし、今もある、有名なティーハウス、ベティーズあたりで優雅にアフタヌーンティーなんぞを楽しんでいたのだろうから。

ハロゲイトのロイヤル・パンプ・ルーム

ハロゲイトは、19世紀から20世紀初頭にかけてスパタウンとして名を馳せた瀟洒な町で、今も外観はほとんど変わっていない。北のバースとでも言った感じか。2年ほど近郊のヨークに住んでいたこともあり、私も何度か足を運んだ。それが、この映画が楽しかった別の要因かもしれない。美しい公園や優雅な建築が並び、上流階級の避暑地としても知られていた。

こうした洗練された雰囲気が、彼女の心を癒やす一助となったのかもしれない。映画撮影は、ハロゲイト以外のヨークやバースなどでも行われたようだ。

アガサ・クリスティ失踪事件は、事実とフィクションの境界が曖昧になったケース。彼女自身の人生がミステリーになり、それを映画がさらなる虚構で包み込む。真実がどこにあるのかは、傍観者の推理におまかせー!

失踪事件その後

失踪事件の後、彼女はアーチーと離婚。やがて、考古学者で14歳も年下であったマックス・マローワンと結婚し、平和な家庭を築くこととなる。そして、推理小説ファンにはありがたいことに、がんがん執筆を続ける。アーチーもナンシー・ニールと結婚し、こちらも円満に過ごしたようだ。

お騒がせな出来事だったが、結果的には「めでたし、めでたし」と言えるのかもしれない。

クリスティは後に

「考古学者は女性にとって最高の夫よ。妻が年をとればとるほど、もっと興味を持ってくれるから」
"An archaeologist is the best husband a woman can have. The older she gets, the more interested he is in her."

と語ったとされる。

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